私が貧乏なのは今に始まったことではありません。
小学校の頃、自我に目覚めた時から既に、「貧乏な家=自分の家」の公式を知っていました。
私の父親は船乗りでした。
当時、一年間の半分ぐらいは北海道の遠洋漁業に出かけていたので、それなりに収入はあったかと思います。
しかし、酒、博打、女につぎ込む人だったので、我が家の生活費として入ってくる額は僅かばかりでした。
そんな訳で、私の母親も子育てをしながら仕事をしていました。
私が記憶している一番昔の仕事は、新聞販売店の事務員でした。
ここには随分と長くお世話になったようで、私が成人した後も働いていました。
お店の店長さんは私の父親とは間逆で、とても温厚で優しい人でした。
私が高校へ入学した時、既に私の父親は他界していたのですが、高校の入学金をいただいたのを覚えています。
内気で、人とあまり話すのが苦手な私でしたので、ちゃんとあの時、お礼を言ったのかなあ・・・。
新聞販売店での母親の仕事の一つに、朝の新聞配達がありました。
皆さんが想像している新聞配達というのは、販売店に来た新聞の束を各家のポストへ配達するお仕事かと思います。
しかし母親の仕事はちょっと違う。
東京(もしかしたら別の県)から届いた何百部・何千部という印刷されたばかりの新聞の束が、母親の働く新聞販売店へ届きます。
それを朝日が昇りきる前に、更に幾つもの新聞の取扱所へ届けるのが母親の仕事でした。
そこから各家へ新聞配達員が届けるのです。
母親はその仕事を月の半分ぐらいやっていました。
夜中の3時ぐらいには起きだし、自家用車で新聞販売店へ出かけます。
そして朝日が昇り、私が目覚めた頃には帰宅していました。
母親のその仕事に興味を覚えたのは、私が中学生の時でした。
父親は、私が小学校5年生の冬に他界したので、母親の新聞販売店での仕事が貴重な収入源でした。
新聞配達と言うと、朝に配るものなのに、私の母親は夜中に配達している。
普通とはちょっと違う仕事に興味が出て当たり前でした。
そこで私は母親に、その仕事に連れて行ってくれと頼みました。
意外にも母親はすんなりと承諾。
後から聞いた話しですが、夜中に一人で車を運転していると、睡魔が襲ってくることがあるそうでして、話し相手になる人がいた方が助かるからでした。
仕事に一緒について行く日の前日、まるで遠足にでも行くかのように気分が高揚していました。
おかげで眠りになかなかつけません。
そして、やっと眠りにつけたのは、目覚まし時計が鳴る僅か前の時間でした。
そのせいで、付いていく事が出来ない事が何度もありました。
目覚まし時計の音でちゃんと起きられた日。
私の記憶に残っているのは、いつも肌寒い季節でした。
緊張感さえ覚えるような寒さの方が、かえって目覚めがよいのでしょうかね。
母親の運転する軽自動車に乗って、一路、新聞販売店へ。
日常生活の中では起きているはずも無い時間。
小さい頃の事ですから、一度は目が覚めても、しばらくすると頭がボーとしてしまい、自分が起きているのか寝ているのか分からない感覚でした。
新聞販売店へ到着し、事務所の鍵を開けますと、事務所の手前の大きな空間には、大量の新聞紙の束がありました。
こんな光景、普通じゃ見られません。
そして、もっと驚いたのは、その横に1BOXカーが置いてあったことです。
自動車は駐車場にあるもので、家の中にあるものではありません。
けれど現実として、目の前にこうしてあるのです。
母親が、自分の想像を遥かに超えた場所で働いていることに驚きと尊敬を覚えました。
大量の新聞紙の束を何かの規則に従って(おそらく配達するルート順)、1BOXカーの中へ詰めていきます。
そういや私が、「仕事用に使う大きな自動車」に乗ったのは、この時が初めてかもしれません。
普通の1BOXカーと言いますと、後ろの座席にも沢山のシートがあるはずなのに、それらが全て取り払われ、新聞紙を詰める巨大な空間になっているのです。
これも幼心に印象深かったです。
軽自動車よりも座席位置の高い助手席に乗り込むと、自分が大きな人間になったような視界で嬉しかったなあ。
全て積み込み、いよいよ出発。
新聞販売店の建物の中から車が出て行く姿は、私の頭の中では、サンダーバード2号の発射シーンを彷彿とさせるものでした。
まだ街は真っ暗。
母親は、色んな場所へ行っては車を停め、車の後ろから新聞紙の束を取り出し、置いていきました。
それを見ているうちに、「おしごと」と言うものをやりたくなるのが子供と言うもの。
私は母親に、自分も新聞紙を置いてきたいと言いました。
当然、大きな包みは私には無理なので、ほんの少しの新聞紙を置くところだけ手伝わせてくれました。
ただ新聞紙を置いてくるだけの作業なのですが、私にとっては生まれて初めての「おしごと」だったので、嬉しくもあり、緊張感のあるものでした。
まだ太陽が昇る前の時間に起きているので、変な脳内分泌物のおかげでテンションが高くなっているのかもしれません。
新聞紙を置く場所によっては、苦手な場所もありました。
それは、大きくて黒い犬がいる場所です。
鎖に繋がられているから、絶対に噛み付かれるはずはないのですが、背が小さくて痩せっぽちな私には恐怖のなにものでもなかったです。
かなり遠い場所にまで配達へ行くものですから、何時間も経過すると、太陽が頭を見せ始めます。
田んぼのあぜ道を走っているとき、遠くの山の方が明るく紫色に輝き始めます。
夕焼けと現象的には同じはずなのに、何故か朝焼けには神秘的なものを感じました。
まだ幼く、滅多に見たことの無い光景だったからでしょうか。
貧乏ゆえ、他の家のように旅行なんて滅多に行くことはありませんでした。
滅多にどころか、ほぼ皆無だったかも。
そういう意味では、母親と二人して自動車に乗り、こうしていろんな場所へ向かうのは、自分の中では「旅行」だったのかもしれません。
楽しいアトラクションがある訳ではありませんが、あぜ道から横転して田んぼの中に落ちている自動車を見つけた時なんて、ディズニーランドの凝った演出よりもインパクトがありました(まあ、私はディズニーランドへ行った事はありませんが)。
一通り配達をして終了。
事務所の中へ再び、車を戻します。
建物の中へ、あんなに大きな1BOXカーをバックで入れてしまう母親の技量に驚きました。
帰り道、いつも私は楽しみにしていた事がありました。
それは、仕事が終わった後、食べ物屋へ連れて行ってくれることです。
朝も早い時間ですから、そんなに多くの店が開いている訳ではありません。
私が記憶にあるのは、中華料理屋とミスタードーナツのお店です。
朝からラーメンが食べられる中華料理屋は、とてもインパクトがありました。
当時のミスタードーナツは、今で言うところのスターバックスコーヒーみたいなもので、私の中ではお洒落な食べ物屋さんでした。
どちらかのお店で食事をとると、身体の内側から温まり、とても気分が良かったです。
後から聞いた話しですが、私を連れてそんな風に食べ物屋へ行きますと、朝の新聞配達の一日分の日当が吹っ飛んでしまうのだそうです。
私のおこなっていた行為は、母親の手伝いどころか、かえって家計を苦しくさせるものだったのです。
けれど母親は一度も、そんな文句を言いませんでした。
むしろ手伝いをしてくれた事に感謝してくれました。
あの新聞配達は、私にとっては母親のお手伝いでもあり、お仕事でもあり、冒険でもありました。
自分の人生の中でも、貴重な体験だったなあと思います。
日 | 月 | 火 | 水 | 木 | 金 | 土 |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | |
7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 |
14 | 15 | 16 | 17 | 18 | 19 | 20 |
21 | 22 | 23 | 24 | 25 | 26 | 27 |
28 | 29 | 30 | 31 |