2011年02月22日

「可能性」は「探ってみる価値」〜When nothing is sure, everything is possible.

最近の新潟市は、非常に良い天気ですよ。
雪国だと忘れてしまうぐらい。
雪の固まりも殆んど見られません。

東京の人が、仕事で挨拶に来ていたのですが、向こうの人ですら「まるで東京みたいな天気ですね」と感想を漏らしています。

あまりに天気がよいものだから、わざわざ徒歩で会社へ通っています。
青空過ぎて、かえって寒さは感じるものの、辛くはありません。
せっかくのお日様ですから、長く接していたいものです。

※※※

仕事の移動中、ラジオのスイッチを入れてみました。
オンエアしていた内容は、児童養護施設の取材でした。

そこには約40名ぐらいの子供たちが住んでいます。
下は3歳から上は18歳。

本当ならば親と暮らしたい年頃なのですが、児童虐待、ネグレクト(育児放棄)等の事情から、この子達は施設で暮らしているのです。 

紙を切って本の形にして、アンパンマンの絵本を作って遊ぶような幼い子もいれば、今年、高校を卒業して県外の大学へ進学する子もいます。

この大学へ進学する女の子は、子供に関わる保育関係の勉強をするそうです。
この施設で育って10年。
とうとう旅立つ時です。

この施設を出ることに対して、だんだん気持ちの整理がついてきているので、寂しいとも感じるけれども、新たなスタートへ向けての準備に心が切り替わってきているそうです。

振り返ると、迷惑をかけてばかりで怒られていたそうです。
しかし、世の中に出たら怒ってくれる人は少なくなってくるし、怒ってくれるということは、自分を思ってくれているという事・・・それを忘れないように、これからを生きたいそうです。

親御さんと暮らせないという現実。
一つ間違えれば、「どうせ私なんか・・・」という気持ちが強くなり、辛い環境を言い訳にしてドロップアウトしてしまう子もいます。
そんな中、むしろ自分が生きた道を肯定し、その延長線上にあるであろう保育・教育関係へ進むというのは、とても強い心の持ち主なんだなあと感銘しました。

確かマーガレット・ドラブルというイギリスの女性作家の言葉でこのようなものがあります。


When nothing is sure, everything is possible.


「この世の中に確かなものなんて無いという事は、逆に考えれば、全てのものに可能性があるということだ」・・・そんな意味でしょうかね。
「可能性」というのは「探ってみる価値」であり、生きる事そのものなのかもしれません。

生きていると自分の目の前に、色んな現実が通りすぎていきます。
そこを通り過ぎたのは「偶然」かもしれません。
しかし、全ての現象には意味があるのだと考えれば、何か真理が見えてくるかもしれません。
他の人ならば見過ごすであろう「偶然」を探ってみることで確かなものにして、自分の生きる道に乗せてみる。

考えているだけじゃ駄目です。
実行する。前へ進む。
考えたことが正しいのかどうかを確かめるには、動きださないと答えは見つかりません。

TVドラマ「僕の生きる道」は、ガンの為、余命一年と宣告された学校の教師が、限られた時間を必死に生きる話しです。
主人公は学生たちに、「ずっと読もうと思ってて、結局読まなかった本の話し」をしました。


「この本の持ち主は、これを読む時間が無かったのでしょうか?
多分、違います。
読もうとしなかった・・・それだけです。
その事に気づかない限り、5年経っても10年経っても、持ち主はこの本を読むことはないでしょう。
だから、一年しか無いなんて言っていないで、やってみましょう。
この一年、やれるだけの事をやってみましょう」


これも真理です。
そこに事象がある事を認識しているだけでは意味がありません。
事実を受け止めただけです。
どうして、そうなったのかを考え、その考えが正しいかどうかを確かめるには、本のページをめくる必要があるのです。

私の父は船乗りでした。
私が小学生の時、父は海で死にました。

気候の穏やかな季節。
父が遠洋漁業に出発する日、私は大きな船を見送りました。

そして寒くなった季節。
父は小さな箱に収まって帰宅しました。

まだ子供だったから、その意味が分からなかったのかもしれません。
だから、泣かずにボーっとしていました。
通夜の日、式場の裏側で母は、私と弟に「今日、一杯泣いて、それで泣くのはおしまいにしよう」と言いました。
不思議なもので、そう言われてから、ドッと涙が溢れて止まりませんでした。
実行することで、意味が分かったのかもしれませんね。

確かにあの時で大泣きは終わり、淡々とそれからの出来事を受け止め、前へ進んでいきました。
多分、自分が思った通りにしているつもりでも、右や左へそれていたかもしれません。
しかし今思えば、その時その時に、ちゃんとした大人が目の前に現れ、正しい道を示してくれたように思います。

あれから何十年も経ったけれど、まだまだ道の途中。
自分の進んだ道が正しいかどうかは、まだよく分かりません。
けれど、あまりにも「普通」すぎて、他の人が見過ごしそうな・・・けれど、とても大切なものを沢山見てきたように思います。
そして、見ただけではなく、自分なりに考え、それを自分の人生に活かして進んで来た事に恥はありません。

歩みは遅くとも、自分の道を進んでいきたいと思います。

Posted by kanzaki at 2011年02月22日 23:34