2023年05月05日

「自分」の正体は、地図の「現在位置の矢印」

jibunnosyoutai.JPG

●『「自分」の壁(新潮新書) 「壁」シリーズ』(養老孟司 著)より


田舎の山には案内板が設置してあります。
これも地図の一種です。


困るのは、往々にしてその地図には「現在位置」が示されていないということでした。
つまり、その山がどんなふうになっていて、どういうふうに道があって、という情報は描かれているのですが、肝心のその地図がどこに立てられているのか、という情報がありません。


当然、自分がどこにいるのかがわからない。
これではまったく役に立ちません。
いくら詳細にその山の情報が書かれていても、現在位置の矢印がなければ役立たずの地図なのです。


------------


なぜ地図の話をしているか。
生物学的な「自分」とは、この「現在位置の矢印」ではないか、と私は考えているからです。
ほかの人がこういう言い方をしているのを読んだり聞いたりしたことはありませんが、そう考えるとわかりやすいのです。


「自分」「自己」「自我」「自意識」等々、言葉でいうと、ずいぶん大層な感じになりますが、それは結局のところ、「今自分はどこにいるのかを示す矢印」くらいのものに過ぎないのではないか。


------------


実は脳の研究からもわかっているのです。
脳の中には、「自己の領域」を決めている部位があります。
「空間定位の領野」と呼ばれています。


私たちは、自分のことを形ある固体だと思っていますが、空間定位の領野が壊れると、それが液体になってしまう。
液体は決まった形をもっていません。
ずるずると広がって流れていく。


ずーっと広がっていくと、どうなるか。
テイラーさん(→臨死体験をした有名な医者)は自分が世界と一緒になってしまうような感じになったのだと言います。


これは理屈で考えるとよくわかる話です。
先ほどの地図の話を思い返してみてください。
地図の中にある現在位置を示す矢印。
その矢印を消していくとどうなるか。
自分と地図が一体化するのです。


------------


自分と世界との区別がつくのは、脳がそう線引きをしているからであって、「矢印はここ」と決めてくれているからです。
その部分が壊れてしまえば、目に入るもの、考えていることも全部、脳の「中」にあるわけですから、自分の「中」にあるのと同じです。
区別はつきません。
世界と自分の境目がなくなっている状態です。


------------


この状態が、とてもわかりやすい形で表れるのが臨死体験です。


体験した方は少ないでしょうが、話に聞いたことはあるでしょう。
花畑が見えたとか、三途の川があったとか、いろんなパターンがありますが、共通しているのは、とても気持ちが良かったという感想です。
一種の至福の状態だといいます。


なぜそうなるかといえば、自分という矢印が消えて、世界と一体化しているからにほかなりません。
自分が世界と一体化するということは、周りに敵や異物が一切ないということです。」


------------


この答え(→どうして唾は、外に出すと汚い物と思ってしまうのか?という質問)は、人間は自分を「えこひいき」しているのだ、と考えればわかってきます。
人間の脳、つまり意識は、「ここからここまでが自分だ」という自己の範囲を決めています。


その範囲内のものは「えこひいき」する。
ところが、それがいったん外に出ると、それまでの「えこひいき」分はなくなり、マイナスに転じてしまう。
だから「ツバは汚い」と感じるようになるのです。


もうお前は「自分」ではない、だから「えこひいき」はできない、ということです。


------------


「自分」とは地図の中の現在位置の矢印程度で、基本的に誰の脳でも備えている機能の一つに過ぎない。
とすると、「自己の確立」だの「個性の発揮」だのは、やはりそうたいしたものではない。
そう考えたほうが自然な気がしてきます。  


もともと日本人は、「自己」とか「個性」をさほど大切なものだとは考えていなかったし、今も本当はそんなものを必要としていないのではないでしょうか。


------------


結論は、そんなオリジナリティを求めても仕方がない、ということでした。
むしろ世間と折り合うことを知る。
世間並みを身につける。  


それでもどこか変なところが残れば、それが個性なのです。
「いいやつだけど、あいつのあの部分だけはしょうがないんだよね」と世間が言ってくれるようになれば、認められたということでしょう。


きっと会社などの組織でも「あの人はしょうがない」と言われる人がいるはずです。
それはいい意味の場合もあれば、あきらめられている場合もあるでしょうが、いずれにしても、その人の個性は何らかの形で受け入れられている。


※※※※※


【コメント】


死を「世界と自分の境目がなくなっている状態」と捉えるのって、なんだか「新世紀エヴァンゲリオン」の「人類補完計画」そのものですね。
養老先生は『「本当の自分」はせいぜい「現在位置の矢印」だと考えてみたらどうでしょうか』と言っています。


------------


「本当の自分」はせいぜい「現在位置の矢印」だと考えてみたらどうでしょうか。
別にフラフラ動いても構いません。
現在位置は動くものなのですから。  


地図のほうは変わりません。
年を取っていけば、地図のほうが自然と詳しくなっていくものです。
そういう生物学的な能力は、社会的にも応用されています。  
社会という地図の中で自分がどこにいるのか。
それを「地位」というのです。
社会的階層の中での自分の位置です。


------------


生物学的な「自分」の正体。
そして、「自己」とか「個性」よりも、折り合いをつけて世間並みを身につけよう。  
この真実はある意味、絶望だと感じる人もいるでしょう。
自分の人生観を打ち砕かれてしまった人も多いでしょう。
けれど、これが真実。


それを知った上で生きると、「自分探し」で人生を無駄にはしないのではないでしょうか。


令和の時代を生きる若い人は、その辺を感覚的に理解しているように思います。
昭和や平成初期に若かった人たちは、その時、こういう感覚はなかったと思います。
「夢」とか「希望」という言葉が当たり前のように歌詞に使われていた時代ですから。

Posted by kanzaki at 07:45
Old Topics