2024年09月06日

「させてもらう」という謙虚な言葉

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●『気にしない練習———不安・怒り・煩悩を“放念”するヒント (三笠書房)』(名取 芳彦 著)より


私がまだ二十代のころ、お寺に来た七十代のご婦人がこんな話をしてくれました。


「住職さん、うちの嫁は年に何回も海外旅行に行くんです。
その間、私は留守番で、家族の洗濯は全部私がやるんです。
でも嫁は、私が元気だから安心して旅行に行けますってお礼を言うんです。
で、私、洗濯物を干しながら考えました。
洗濯させられている、してやっているなんて思うより、洗濯させてもらっていると考えれば、ずっと気が楽になるって」  


こうして私は「させてもらう」という言葉は謙虚でいいと思うようになりました。  


そして、人のために何かをしてやる、してあげるというのは、傲慢な心の表れだと感じるようになりました。


「してあげる」は、人の役に立てる自信の表れでもありますが、ある意味で傲慢な気持ちが含まれているので、できれば謙虚な気持ちを表す「させてもらう」を使うべきだと思うようになったのです。

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ところがここに落とし穴がありました。


「してあげる」は、基本的に相手のことを思えばこその言葉です。
相手のことを思う気持ちは大切です。  


それにもかかわらず、私は「してあげる」は傲慢だからと、人のために何かすることをしなくなった気がするのです。


しかし、相手のことを思って何かしてあげるのは、何もしないより明らかに素敵なことです。


偽善的だから、傲慢だからと遠ざけていれば、理屈ばかりでものごとを考えて、結果的に何もしない人になってしまいます。  


誰かのために、何かをしてあげたいと思うのは、とても素敵ですよ。


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【コメント】


自分の心に、常にリミッターをかけるよう意識しているつもりです。
そうすることで、言動が暴走しないようになるからです。


自分の言ったこと、行ったことに責任を持たなければいけません。
けれど、そんな完璧な人間ではありませんから、全てに責任を負うことは不可能です。


だから、そうやってリミッターをかけます。
それは悪いことではありません。


そして、「させてもらう」という謙虚な態度は、相手を思う気持ちのあらわれにもつながりますから。


就職氷河期世代は、その気持を分かってくれると思います。
我々は厳しい環境下で虐げられてきましたから。


働く場所があるだけマシみたいな気持ちがあり、辛くても我慢してきました。
辛かったけれど、リミッターを心にかけるのだけは出来るようになったので、それは良かったのかなと。


まあ、それで搾取されていた部分も否定できませんが。

Posted by kanzaki at 07:09
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