●『続 定年バカ (SB新書)』(勢古 浩爾 著)より
一橋大学大学院教授の楠木建は、世の中には「良し悪し族」と「好き嫌い族」がいて、楠木は断然「好き嫌い族」だといっている。
じつはわたしも「好き嫌い族」である。
楠木は「世の中の9割は好き嫌いで成り立っている」といっている。
これに根拠はないが、ほぼ間違いないという勘が楠木にあり、それでいい切る、というのも好きなのである。
であるからには、わたしたちも九割の好き嫌いの判断をしなければならないことになる。
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人が他者に強制されず、自分自身で獲得した固有の価値基準。
自分の言葉で対象をつかみ、自分の言葉で考え、自分の言葉で伝える力。
もっと言えば、『その人がその人である』ための基盤。
これが教養である。
(『すべては「好き嫌い」から始まる──仕事を自由にする思考法』文藝春秋、二〇一九)
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「不自由から解放されて、自由になるために教養がある。
それは自分に固有の好き嫌いを自覚し、それを価値基準として思考し、判断し、行動することに他ならない。
ごくあっさり言えば、教養の正体はその人の好き嫌いにある」
これが大事なところだ。
教養の底には「好き嫌い」があるのである。
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「フェイスブックを好きになれないもうひとつの理由は、自分の「生活」にある。
僕はいたって非活動的な生活様式を堅持している。
そんなもんだから世の人がフェイスブックに活動的な生活を楽しんでいる報告をしているが、自分には報告すべき「イベント」がなにもない。
早起きして仕事場に行き、仕事をして夕方頃には早々に撤収、ジムに寄って帰宅してしまうと、あとはお風呂に入ってご飯を食べて本を読んで日記をつけて寝るだけ。
9時半には床についてしまう。
この小学生のようなルーティンをひたすら繰り返している」
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「小学生のようなルーティンをひたすら繰り返している」というのがいい。
こういうことを堂々といえるのも、自分の好き嫌いに自信があるからである。
楠木につまらぬ見栄は必要ないのである。
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まとめとして、こういっている。
「僕が唯一成長したのは、成長しない自分をそのまま受け入れて、そういう自分とつきあっていく能力においてです。
この点ではよどみなく成長しまくりやがりました」。
この「〜しまくりやがりました」は、楠木のいわば修辞上の必殺技で、かれはこれをいつどこで使ってやろうかと楽しんでいる。
所詮人は人、結局、自分ひとりの好き嫌いで生きるほかないし、そうやって生きればいいのである。
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【コメント】
その好き嫌いを日常生活、仕事において表に出せないから、普通の人達は辛いのではないでしょうか。
書籍を出している人達と私達の違いはそこだと思うのです。
環境、人間関係、その他が理由で、そうそう口や態度に出せないものです。
私は秀でた能力があるわけでもないし、強固な人間関係があるでもない。
そういう私のような人間の場合、可能な限り「やる(手に入れる)・やらない(捨てる)」の選択で生きていくしかありません。
特に「やらない(捨てる)」を重視です。
意外と大変ですけれどね、その選択も。
けれど、プラスは期待しないけれど、マイナスにならないように維持するには、この行為は大切なように思います。
人間ひとりが管理・維持できる能力・体力・気力には限界がありますから。
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