2024年04月26日

「幸福」だと思い込んできたものは「快感」だったのかも

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●『3・11後の世界の心の守り方 「非現実」から「現実」へ』(小池龍之介 著)より


今回の大地震、大津波、そして、原発事故──このたいへん痛ましい事態に、もし、救いを見出すことができるとしたら、この最終章で申し上げたいのは、これを、私たちがこれまで幸福だと思い込んできたものが、じつはそうではなかった、ということに気づき、ほんとうの幸福、すなわち、「心が安らいでいられること」へと、私たちの価値観を転換させていくチャンスとすることができるのではないかということです。

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これまで私たちが幸福だと思い込んできたものとは何だったのか、といえば、それは「快感」です。


おそらく明治維新、十九世紀の後半ぐらいから、日本人の間に徐々に浸透してきた、快感こそが幸福だ、という思考スタイルと、それに基づいて築き上げてきた文明こそが、じつはうつ病を大量に発生させ、年間三万以上の人が自ら命を絶つという異常事態を引き起こしているように、私の目には見えます。

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私たち現代日本人の大多数は、寒くて臭いトイレにも、暑い教室にも、冷たい水での洗濯にも耐える必要はなくなりましたし、お腹が空けば(空いていなくてもストレス解消に)二十四時間、いつでもたいていのものが食べられます。
毎年毎年、すてきなファッションや新しいデジタルツールが出てきて、それを楽しむことができます。
何日も歩かなくても電車に座ったままで遠くに行けるし、それもいやなら、部屋にいながらにして世界中の情報に触れることもできます。


たしかに、幸福になりました。
もしもそれを幸福と呼ぶのなら。 確かなのは、私たちが快感を感じる機会が増えてきたということです。

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(江戸時代などの大昔は、)多くの人にとって、日々の仕事は、基本的には、生きてゆくためにしっかり身体を動かして働き、同じことをひたすら反復するだけの、厳しくも淡々としたものだったことでしょう。


そういう生き方のなかでは、ドーパミンなんて、そんなに始終、大量に出るものではありません。
そして一見つまらなそうに見える反復作業を続けていると、快感への中毒が抜けていって心が落ちつき、元気になってまいります。

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ほしいと思ったものがすぐに得られないと、最初はイライラします。
だんだん落ちつきがなくなってきます。けれどもしばらくその不快感のなかで耐えてじっとしていれば、やがて自然に、まあいいかな、という気持ちになってくるものです。


心が安らいでいく神経回路にスイッチが入るからです。


つまり、人間の神経は、思いどおりにならない時期を静かに待ってやり過ごすことで、落ちつきを養っていくようにできているのです。
だって、ほしいと思いつづけてイライラした状態を永久に続けていたら、気がふれてしまいますから。


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【コメント】


幸せの定義なんて人によって変わってくるとは思います。


最近、物欲的なもの、快楽的なものを得たからといって、果たしてそれは幸せなのかなと疑問に思っていました。


ちょっと風邪をひいたり、体調を崩したりすると、「なんでもないごく普通の生活のありがたさ」を痛感しますよね。


私にとっての幸せとは、そういう「なんでもないもの」です。

Posted by kanzaki at 07:00
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