2010年01月11日

小説「坂の上の雲」の主人公・秋山真之(あきやま さねゆき)に見る勉強術、読書術

先週は仕事始めということもあり、連休中に崩れた生活習慣を取り戻すのに大変でした。
そんな中、仕事から帰りますと、一冊の小説を読んでおりました。
司馬遼太郎先生による長篇歴史小説「坂の上の雲(さかのうえのくも)」です。

昨年末、NHKで第一部が放映され、すっかり魅了された私は、神ナナでも取り上げました。

●神崎のナナメ読み: 「坂の上の雲」の兄・秋山好古に見る「単純明快」
http://kanzaki.sub.jp/archives/001978.html

ドラマを見てしまいますと、やはりその原作本も読んでみたいものです。
単行版は全6巻、文庫版は全8巻で構成されています。
私は一度読んだら、それを愛蔵するという趣味はないので図書館で借りることにしました。
しかし当然のことながら、全て貸出中。
そこで私はちょっと視点を変え「司馬遼太郎全集 第24巻」を借りてきました。
全集ですと、第24巻から第26巻までの3冊にまとめられているので、借りる回数も少なくて便利。
しかも、すぐに借りることが出来ました。

しかし借りてからが大変。
分冊数が少なくなっているという事は、一冊あたりの文章量が増えることになります。
各ページ共に細かい文字による二段構成になっており、これを読むのは大変です。
年末は仕事が忙しかったり、連休中はダラダラしていた為に、返却期間間近になってしまいました。
ビジネス書等ならば、一冊あたり30分から1時間もあれば余裕で読めますが、小説に関しては速読ができない私。
しかし返却期間が迫っていることもあって、会社から帰宅しては何時間もかけて読んでいました。
なんとか一冊を読み終えたので、ほっとしています(そして充実感)。

三分冊された最初の一冊目は、正岡子規が死に、日露戦争海戦直前までが描かれています。
昨年末に放送されたドラマ(第一部は全五話)よりも先まで描かれています。
今年の年末に放送されるドラマ第二部の七話から八話あたり迄でしょうか。

昔の小説ではありますが、非常に読みやすいです。
作者は新日本新聞社で働いていた経緯もあるからでしょうか、新聞記事のように余計な比喩を多用せず、事実をシンプルに書いています。
シンプルゆえ、時間が経過しても表現に陳腐化が起きないからでしょうか、21世紀に生きる私でも、素直に読めました。
近代史にあまり縁の無い私ではありましたが、時代背景も事細かに書かれているおかげで理解がしやすかったです。

それと、昨年末にドラマを見ていたのも良かったのでしょう。
沢山の登場人物が小説内で出てきても、すぐにイメージが浮かび上がり、混乱がありませんでした。

小説は脳内に自分なりのイメージを描くものではありますが、そもそも予備知識が無ければ脳内でイメージを描きにくい(それに、それが正しいとも限らない)。
小説で時代背景は分かったとしても、
例えば、日本や清の国の兵隊の服装がどんな感じか、
戦艦は現代のものとどう違うのか、
その当時の都会である東京の街並みや、
主人公たちの故郷である松山の民衆の生活等は、
映像として再現されているドラマの方が理解をしやすいし説得力があります。

映像作品であるドラマは、ナレーションはあくまでも補足であり、重要なのは登場人物たちの感情の動きです(ナレーションは他のドラマに比べて多めではありますが)。
だから自ずと、説明的な部分はカットされてしまいます。
その為、小説では自分の部下が戦闘の際、自分の指示の為に死んでしまったことを悔やむ部分を数行しか割いていなかったのに、ドラマではじっくりと描いています。
その悩みを東郷平八郎という男に打ち明け、助言をもらうシーンが有るのですが、小説ではそのような描写はありません。
ドラマではそれ以外のシーンでも真之と東郷が出会うシーンが有りましたが、小説ではドラマ第一部に当たる部分では面識が無いことになっています(日露戦争直前、真之が常備艦隊の参謀に内定した際にはじめて会います)。
逆に小説は、ドラマで言うところのナレーションが主になりますから、説明的なものが多くなります
特に政治的背景、国と国の関係、諸外国の事情などは、やはり説明文の方が分かりやすくて良かったです。
その部分を読むと、国が戦争へ突入する際の思考というものが分かったけれど、自分にはその思考論理が感情的に理解できないとも思いました。

ドラマを見ていて分からなかった部分を小説で補えことができたので、やはり小説を読んで良かったと思います。
「坂の上の雲」という作品をドラマと小説で同時に初体験できた私は、実に恵まれた最良の環境だったと思います。
小説の方は、ドラマの第二部が始まる頃に改めて続きを読みたいと思います。
せっかく、ハイブリッドな体験をしているのですからね。

さて、このドラマの主人公である秋山真之(あきやま さねゆき)。
彼は日露戦争の起こるにあたって勝利は不可能に近いと言われたバルチック艦隊を滅ぼすにいたる作戦をたて、それを実行しました(この言葉はドラマで毎回、冒頭のナレーションに使われていますが、小説の第一部のあとがきにほぼ全く同じ記述があります。そこから引用したようですね)。

小説内にて、彼の勉強術、読書術について書かれていたのでご紹介したいと思います。

真之は兄・好古の金銭的援助を受けて大学予備門へ通っていました。
彼は成績優秀でした。
そんな彼が兄に、大学予備門を辞めたいと言いました。
理由は授業料のことが心配というのも勿論あります。
しかし、それでは兄が一喝するだけです。
彼は他にも考えていることがありました。
もし自分が今のまま大学予備門にいれば、いずれは官吏か学者になるだろう。
しかし、なったとしても二流の官吏、二流の学者にしかなれないと思っていました。
おもしろかろうがおもしろくなかろうが耐え忍んで勉強してい行く根気というものが学問には必要。
しかし自分はそんなものは無いと考えていました。
彼の台詞を引用すれば

「あしは要領がよすぎる」

真之はこの言葉に自嘲と、ひそかな誇りがありました。
一種天才的な勘があり、真之は学校の試験などの場合、ヤマを当てる名人でした。
そのため、予備門の仲間たちからは、「試験の神様」というアダ名がつけられていました。
いざ試験勉強になると、その試験範囲の中から要点を見極め、後は凄まじいほどの数夜の徹夜でやりあげてしまう。
その時、友人たちにも「これとこれが出る」と教えるのですが、それが必ずと言っていいほど的中しました。
何故、そのように的中するのかと友人が真之に聞くと、自分が教師になったつもりで検討するのさ、と言いました。
更に、教師は好き好みがあり、それを参考にするのだと。
ついで過去の統計も必要なのですが、それは上級生に聞けば分かる。
そして・・・・・

「そのあとは、カンだな」

と真之は言います。
そういうカンが真之には格別に発達しているらしく、そのことは自分でも気づいていました。
そして、自分は学者よりも軍人の方が向いていると思いました。
学者は根気と積み重ねにより、するどい直感力による仮説を裏付ける行為が必要ですが、なにせお金がかかる。
しかし、真之にはお金が無い。

兄の好古は、自分の弟の事を単に要領の良い男とは見ていませんでした。
思慮が深いくせに頭の回転が早いという、相反する性能が同居している人物だと見ていました。
その上、体の中をどう屈折して飛び出てくるのか、不思議な直感力もある。
確かに、軍事に向いていると思いました。
兄の許しも得て、真之は海軍兵学校へ入ることになります。

当初、彼は大学予備門の頃の自由な生活を懐かしみ、そして左右にいる生徒たちの子供っぽさ、土臭さが馴染めませんでした。
しかし二年目には覚悟が出来て、その頃から最後まで首席でした。

同期の生徒たちは真之に「秋山はいつ勉強するのか」と聞きました。
しかし真之にしてみれば、彼らがああも勉強している事の方がわかりませんでした。

大学予備門の頃と同じように、試験と言うことになると「どこが出るのか」と、誰もが真之に聞きました。
真之の試験予想は、殆どが的中しました。
そういう、不思議な天分を持っていました。

時は過ぎて米西戦争時、主人公の一人である俳人・正岡子規(真之の幼少からの友人)は病を患い養生をしていました。
優秀な軍人である真之は、英国公使館付の駐在武官としてイギリスへ渡りました。
翌年に日本へ戻った際、子規の見舞いに行きました。

子規は他の者たちに、真之はなかなかの文章家だと褒めたたえました。
しかし真之はそれを否定しました。

「いや、だめだ。あしには執着がない。物事は執着がなければものにならない」

今の真之の執着は海軍作戦でした。
この執着は異常とも言えました。
海外であろうがどこにいようが、ひたすら海軍作戦に必要と思われる書物は読みあさりました。
彼が後に海軍少佐になった時(明治34年)には、ますます海軍戦術の研究に熱中しました。
その熱心さは度を外れておリ、

「一生の大道楽」

だと人々に言っていました。
その頃、日本海軍に戦術家と自他共に言える人物は驚くほど少なく、真之の先輩では、島村速雄と山屋他人の二人だけでした。
海戦戦術についての日本人の著作物は、山屋他人の書いた簡単なもの一冊しかありません。
自然、真之は全てを別に命じられたわけでもないのに、ただ一人で手作りでつくりあげていました。

彼は世界中の兵書という兵書を読みました。
多くは陸軍兵書でした。
滞米時代からそうでしたが、戦術に陸と海の違いはないと明確な態度をとっていました。

中国の兵書「孫子」「呉子」、欧米ものは戦史・戦術書などことごとく読みました。
ブルーメの「戦略論」とマカロフの「戦略論」は人にも勧めていました。
のちに彼が愛読した本の著者マカロフ中将を相手にまわして、終始勝ち続けたのは宿命でしょうか。

日本のものでは、最も優れたものとして「山鹿(やまが)流軍書」をあげました。
上杉謙信と武田信玄の戦いの棋譜である甲越関係の軍書も愛読しました。
一見、関係の無さそうな馬術や弓道のような武術書まであさって読みました。
彼曰く、個人的武芸だけれども、原理を抽出すると、軍理に応用できるものがあるそうです。

「秋山の天才は、物事を帰納する力だ」

と海軍内で言われていました。
あらゆる雑多なものを並べて、そこから純粋原理を引き出してくるというのは、真之の得意芸でした。
「秋山軍学」といわれた真之の作業の仕方は、ほぼそういうものでした。
やがてそれが日本の運命と交叉する日が来るということを真之自身予感をしていました。

話しは、正岡子規を見舞った頃へ戻します。
子規は真之が沢山の本を読むことを賞賛しました。
すると真之は、

「乱読よ。本は道具だからな」

と言いました。
子規は僅かな家計の中から書物を書い、その書物をことごとく美術品かなにかを扱うかのように愛蔵し多少書痴の傾向がありました。

しかし真之は別でした。
本はどういう名著でも数行、または数頁しか記憶しません。
気に入ったくだりは覚えてしまい、あとは殻でもすてるように捨てます。
人にやってしまうか、借りたものならば返してしまっておしまい。
従って、これだけの多読家が、蔵書というものを殆ど持っていませんでした。

真之「そこが戦争屋よ。海戦をするのに本をみながらはできまい」
子規「覚えておくのか」
真之「数行だぜ。その事柄つまりあしのばあいは海軍作戦だが、それに関心さえ強烈ならたれでも自然とおぼえられる。ただ、名文句にぶつかることがある。これは本の内容とはべつに、書き抜いておく。もっとも書き抜きの手帳を紛失することがあって参考にはならんが、まあ覚えちゃいる。漢籍はあまり読まんが、新聞にもそれがあり、英語の書物にもそれがある。それを書きぬいておいて、ときどき報告書などを書くときにおもいだす」

これが、真之の生涯を通じてのただ一つの文章修業法でした。
新鮮な方法とは到底言えないものの、文章のリズムを体に容れるには案外いい方法かもしれないと司馬遼太郎先生は本文で書いています。

真之がこうも多読で研究熱心だったのは、海軍の作戦というのは日進月歩で、すぐに古くなるからだと思います。
本文でも真之は、船底の貝殻(本文では"かきがら")を引用して語っています。

軍艦は遠洋航海をして帰ってくると、船底に貝殻がいっぱいくっついて、船あしが落ちてしまうそうです。
人間も同じで、経験は必要。
逆に、経験によって増える知恵だけ採って貝殻を捨てるということも人間にとって大切。
しかし、老人になればなるほどそれが出来ないと言います。

そして、人間だけではなく、国も、海軍も古びて貝殻だけになる。
海軍の作戦も古今集ほどじゃないが、すぐに古くなる。
作戦とはこう、という固定概念(貝殻)がついている。
恐ろしいのは固定概念だはなく、固定概念がついていることも知らずに平気で司令室や艦長室の柔らかい椅子にどっかりと座り込んでいることだと言います。

真之は、海軍としては素人のアメリカ軍を素人だとは思うが、素人は知恵が浅い代わりに、固定概念が無いから、必要で合理的な事はどんどん採用して実行しており、そこに感心しました。

その素人であるアメリカ軍が採用していた演習方法は非常に利点が多かったので、早速日本でも採用するように提案しました。
それを採用できるほど、日本もまだ堅物ではなかったようです。

以上のように小説内の至る部分で、真之の勉強術・読書術が書かれていました。
現代の我々にも利用できそうな部分がいっぱいありましたね。

そういや、昨日までご紹介しておりました「断る力」の著者・勝間和代さんも多読です。
一ヶ月の書籍購入代は桁が違います。
気になったものはとりあえず買うものの、それらの中で人に勧められるほどの本との巡り合わせは確率的に少ないとか。
ただし、本というのは著者の知恵や経験のエッセンスがぎっしりと詰まっておリ、それを理解するには最高にコストパフォーマンスがいいらしい。
勝間和代さんは更に、「フォトリーディング」という速読術をマスタしているので、一冊の本を読み上げる時間が異常に速いです。
多読・速読が、勝間さん自身を更に磨き上げ続けているのでしょうね。

私も多読の方ですが、自宅には殆ど蔵書がありません。
基本的に図書館で借りて読んでいます。
小説を読むのは遅いですが、ビジネス書ならば速く読めます。
当サイトの名前の通り「ナナメ読み」をしているからです。
本当の速読術は知りませんが、私の場合は見開きのページを一定のブロックごとに目に写し、読むと言うより絵画を眺めるような読書です。
なんとなくそれで理解できます。
そして、ここは重要だなあと思ったら、デジカメのマクロ機能を使って撮影します。
ノートに書き写すのがベストなのでしょうが、そこまでやっていると続きが読めないし、読むリズムが失われてしまいます。
あと、不要・つまらないと思った部分があれば、さっさと飛ばしてしまいます。
とくかく最後まで読み切ってしまう。
一度読んでから、必要な部分だけ読み返して、記憶に定着させる感じです。
これがベストな読書方法だとは思いませんが、限られた貴重な時間を有効に使うには良いのかなと思います。

人それぞれ、読書法・勉強法があるかと思いますが、なんにせよ続けることが大事。
年齢を重ねると、読書量は減る傾向にあると思います。
なにせ必要性に迫られないから。
私は逆に増えています。
年齢を重ねると言うことは死期も近くなると言うこと。
限られた時間に、なるだけ有効に時間を使うには、先人達の知恵を拝借するのが近道。
その為に読書をしているようなものです。

Posted by kanzaki at 07:42
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