好きな幕末の人物として、坂本龍馬、西郷隆盛と並んで勝海舟を選ぶ人も多いかと思います。
2人は非業の死を遂げたのに対し、勝海舟は明治維新後も長く生きました。
新聞紙上に談話録を載せ、庶民の人気を集めました。
その談話録が今も文庫として残っています。
「新訂 海舟座談」・「氷川清話」の2冊です。
●Amazon.co.jp: 新訂 海舟座談 (岩波文庫)_ 勝部 真長, 巌本 善治_ 本
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●Amazon.co.jp: 氷川清話 (講談社学術文庫)_ 勝 海舟, 江藤 淳, 松浦 玲_ 本
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【新訂 海舟座談】
「ナニ、誰を味方になどというから、間違うのだ。
みンな、敵がいい。
敵がないと、事が出来ぬ。
みンながワイワイ反対して、それでいいのだ」
「ナニ、ワシは一人も同志はいないよ。
同志というのが嫌いだから。
ワシなどは、元、とンと望みがなかったものだからネ。
貧乏でねエ。
メシだって、一日に一度位しか食べやしない。
それで十分だもの。
ナアニ、それでいいのサ」
ビートたけしさんの語り口調にも似た江戸っ子の気っ風のよさ。
明治政府で重きをなした人物は薩摩・長州・土佐などの旧藩士が多い中、勝海舟は、数少ない江戸っ子です。
本当に貧乏。
青年時代は一年中、剣術修行の稽古着を着てすごしました。
結婚して蘭学塾を開いた20代も布団・蚊帳はなく、柱を削ってめしたきをしていました。
坂本龍馬がほれこむ一角の人物。
下記のような人でした。
・蘭学の辞書が買えなければ、人から借りて二部も筆写するほどの情熱があった。
・ワイロ、礼金のたぐいを決して受け取らなかった。
・目下の者を「やがて一人前になる人物だから」と分け隔てなく遇した。
・多忙な折でも「市内探索」を欠かさず、自分の目で見てよく観察するのを旨とした。
勝海舟が、蘭学で身を立てる契機は、自分で辞書を模写したことです。
その蘭学を活かし機械を製造しても、ワイロの類は受け取りませんでした。
その「清廉な人物」とのうわさが幕府の目付役の耳に入ったのが縁で、引き立てられるようになったです。
地道な努力と、
「ナニ、誰を味方になどというから、間違うのだ。みンな、敵がいい。ナアニ、それでいいのサ」
とゆったりかまえていれば、自然と肩の力も抜けるでしょう。
(本田コンサルタント事務所・本田有明さんの解説)
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なにせ江戸城無血開城の人物ですからね。
頭脳明晰、人脈の広さ、強靭な精神。
べらんめえ調のラフな語り口。
政治手法は、現代的なものというより、私には任侠に近いようなイメージ。
それは、「至誠(この上なく誠実なこと。まごころ)」を重んじているから。
しかもお金に関する知識・感覚が豊かなので、もし現代に生きていたら、アップルやグーグルみたいな企業を日本から生んでいたかもしれませんね。
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【氷川清話】
肝が座った人物という印象。
「おれなどは生来人がわるいから、ちゃんと世間の相場を踏んでいるよ。
上がった相場も、いつか下がるときがあるし、下がった相場も、いつかは上がるときがあるものさ。
その上がり下がりの時間も、長くて10年はかからないよ。
それだから、自分の相場が下落したとみたら、じっとかがんでおれば、しばらくすると、また上がってくるものだ。
その上がり下がりの10年間の辛抱ができる人は、すなわち大豪傑だ」
「困難艱難に際会すると、たれでもここが大切の関門だと思って一所懸命になるけれど、これが一番の毒だ。
世間に終始ありがちの困難が、一々頭脳にこたえるようでは、とても大事業はできない。
ここはシナ流儀に平気で澄ましこむだけの余裕がなければならない」
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(では、どうすればいいか)
「いわゆる坐忘(ざぼう)といって、何事もすべて忘れてしまって、胸中かつ然として一物をとどめざる境界に至って、始めて万事万境に応じて縦横自在の判断が出るのだ。
あれの、これのと、心配ばかりしていては、自然と気がうせ、とても電光石火に起こりきたる事物の応接はできない」
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