2004年07月09日

死と子供

○「死んだいのちは帰って来ない」 7歳ごろに死を理解

「死んだいのちは帰って来ない」といった生と死についての認識は、七歳ごろに確立されることが、「兵庫・生と死を考える会」の調査で分かった。
従来は九歳ごろとするのが定説だったといい、二年早まった格好だ。
長崎の小六女児事件後、「命の教育」の大切さが強調される一方、死について幼い子に話すことをためらう風潮があるが、同会は「死の理解が確立される前の幼稚園ごろから、家庭や学校で死について話してやることが大切」と訴えている。
兵庫県内の幼稚園・小学校十校園に通う四―九歳児五百四人に実施。動植物や自動車を生きていると思うか▽生き物の飼育経験の有無▽人の死をどう認識しているか―など十六問を設け、聞き取った。
小学校入学前は命の理解があいまいで、自動車を「生きている」と答えた子は五―七歳で30―40%。
タンポポを「生きていない」とした子も四―六歳で30―40%いた。
「自分がいつか死ぬと思うか」という問いに、「死ぬ」と答えた子は四歳児だと40・4%。
成長とともにその割合は上がり、七歳で89・4%、九歳では95%となる。
「自分」を「お父さんやお母さん」に置き換えても同様の傾向がみられた。
「人は死んでもまた生き返ると思うか」という問いには、「生き返らない」と答えたのが四歳児では53・2%だが、六歳以降は70%台になり、九歳で81・7%に達した。
同会会長の高木慶子・英知大教授(人間学)は「七歳の子どもがすでに自分や人の死を考えている。
大人も避けることなく話す機会を持つことが大切」と指摘。
「ペットや身近な人などの死を取り上げ、死を迎える苦しみや死者を送り出す悲しみなどを考えさせてほしい」と提案する。


○死んだら…「生き返らない」と回答できた小中学生、3割

小学生の女児が学校内で、同級生をカッターナイフで切り死亡させるという前代未聞の事件が起きた。
事件の衝撃に加え、被害者に「会って謝りたい」と言う女児の言葉、親の目には「自己主張が苦手」と映る女児の二面性に大きな波紋が広がっている。
日本女子大の調査で「死んだら生き返らない」と答えられた小中学生は僅か3割。
長崎市内の小学校では、これまでタブーとされてきた「死」を教える授業を開始、子供たちの反応に戸惑いながらの模索が続いている。


* * * * *


子供たちの死についての考え。
評論家は「テレビ、漫画、ゲームの影響」等と、もっともらしい事を説明に加えるかもしれません。
RPGゲームのドラクエならば、「ザオリク」という魔法で簡単に死者を蘇らせる事が出来ます。
漫画のドラゴンボールは、7つのボールを集めれば願い事が叶うので、死者を蘇らせる事も可能。
それを当て込んでクリリンが死んだっけ。
筋肉マン、男塾、少年ジャンプ系の漫画は、死者が何かしらのきっかけで現世へ生き返ることが珍しくありません。
これだけ書くと、「やはり理由は、それなのか?」となってしまいそうですが、昔の子供だって、死についてそんなに深い考えを持っていた訳ではありません。
カエルのお尻の穴に爆竹を突っ込んで爆発させたり、そういう事が日常茶飯でした。
テレビや漫画の中では無く、実際に破壊行動を伴っていましたから。
けれど、そんな生活をしていたとしても、多くの人が大人になったら、普通の真面目な社会人となっています。

私自身が小さい頃、死について考えた事なんてあったのだろうか?
記憶にあるのは、近所で葬式が行われると、いつも浮浪者のおじさんが葬式饅頭を貰いに来ることと、自分の父親が死んだ時かなあ。
父親の死については、正直、そんなに泣いたという記憶はありません。
母親に裏側で、「皆の前で泣くのはやめよう」と云われたせいかもしれません。
そもそもお葬式という概念が無かったせいか、黒い衣装を着た大勢の人間が、泣きながら母親に話しかけているなあとだけ思っていて、泣くという感情は沸き起こらなかったなあ。
父は遠くの地で亡くなり、小さな箱に収まって実家へ帰ってきました。
だから遺体を見た訳でもない。
とにかく、いつもと違った時間の流れ方をした数日間でしたね。
久しぶりに小学校へ行くと、みんなが優しく迎えてくれたのは嬉しかったなあ。
張本人の私なんかより、周りの友達の方が、「死」「葬式」「肉親との別れ」について知っていたのかもしれません。
そんな曖昧な記憶しかないのですが、何故か大人になった今でも、「遺体を見る」事が出来ません。
祖父母の遺体をちゃんと見てやる事が何故か出来ませんでした。
父親の死の際、遺体と対面していなかったのも理由の一つかも。
理屈じゃなく、拒絶反応みたいなものが起きます。
これは、その人の死を否定したいと、自分の身体が勝手に反応してしまうのかもしれません。

冒頭の調査は、幼い児童の殺人をきっかけに調査したものだと思います。
けれど、「死についての理解」と「生きている人を殺す事はいけない」という事は、同列で見るべきものなのでしょうか?
何か違うような気がします。
けれども幼い頃に、漠然とでもいいから「死」に対して向き合っていれば、私のような人間にはならず、ちゃんと亡くなった人を見届ける事が出来ると思います。
私の場合、向き合わずに、何気にその時間を経験してしまっただけなので、かえって逆効果になっているのだと思う。
まあ、小学校5年生の頃の神崎なので、勘弁してあげてください。

今回のアンケートを元に何かしら教育へ還元するのならば、「殺意という衝動を起こしてはいけない」「その感情をどう消し散らすか」だと思います。
しかし、「殺意」という感情を普段から持って生きている子供なんていないでしょう。
教育の場で、それを説明したって、生徒は口をぽかーんと開けて聞き流すだけ。
じゃあ、どうしたら良いのか?
私は、「死というものを考えさせる教育」というよりも、「素敵な生き方を過ごす方法」を教えるべきだと思う。
そういう生き方には、殺意なんて感情は巻き起こらないはずだから。
アメリカでは、ピストルによる事件が日々起きています。
身近にピストルが置いてあって、「これを使ってはいけません」と教えたって、何かしらの感情が巻き起こった際、「そういえば、ピストルがあったなあ。それを使おう」と行動に出てしまう確率が高い。
日本の場合、少なくとも「ピストルで相手を殺す」という行動にはなりにくい。
それは日常生活に存在しないからです。
「素敵な生き方」という抽象的な説明で申し訳ないのですが、今は具体的な言葉が見つかりません。けれど、そういう環境には、「人を殺す武器」は存在しないと思う。
カッターナイフも包丁も、人を殺そうと思えば可能な武器となるけれど、素敵な生き方をしている人にとっては、カッターナイフは紙を切る道具であり、包丁は料理に使う道具であるのです。
そういう武器としての考え方なんて起きようがありません。

素敵な生活を子供に過ごさせるには、大人の力が必要です。
子供の性格は、環境が作り出すと思います。
将来を左右するのは、才能なんてほんの数パーセントで、多くは環境。
だから、大人がちゃんとしていなければいけません。
何かを教えるというよりも、「素敵な生き方」を自然に感じさせるのが大事。
子供は親の言葉ではなく、背中でいろんな事を知るのだから。
ですから、子供に無理やり押し付けるのではなく、あなた自身が素敵な生き方を実践してみてくださいね。

Posted by kanzaki at 2004年07月09日 23:23 | トラックバック (0)
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