ドーナツにはどうして、穴が開いているのでしょうか?
揚げる際に熱の通りを良くし、生地が生焼けにならないためです。
決して、ドーナツ会社がコスト削減の為、真ん中の生地の分だけ減らしたのではありません。
しかしドーナツの種類によっては、穴を開けない塊のものや、棒状のもの、捻った状態のもの等もあります。
北京ダックはどうして、皮だけを食べて、中身を食べないのでしょうか?
「北京ダック」というのは料理の名前ではなく、素材そのものを指す名称です。
我々がイメージする北京ダックは、「カオヤース」という名前の料理だそうです。
アヒルの皮を焼いたものをライスペーパーに包んで野菜とともに食べます。
中身はダシを出し切っているし、香草臭くて食べられません。
しかし地域によっては中身を食べる場所もあります。
ドーナツと北京ダックに共通するのは、人々が「無い部分」について気になることです。
ドーナツを食べていると、その真ん中の空間を見て、「どうしてここには何も無いのだろう」と疑問に思います。
そして、北京ダック(の皮)を食べていると、「どうして皮だけで、中身を食べさせないのだろう」と疑問に思います。
料理としてそもそも、その部分は無いものなのに、食べる人達が気になる存在。
我々は、穴の部分に生地を想像で補完したり、皮に付いていた中身を想像で補完するのです。
何もないし、いないはずなのに気になる存在としては他に、どんなものがあるでしょうか。
例えば、幽霊の存在なんてどうでしょうか。
人も生物もいないのに、その場の雰囲気から、「その物陰に誰かがいる気配を感じる・・・」と、自分で自分を不安にさせます。
神様や仏様の存在もそうです。
姿形は見えないし、触れることも出来ないのに、それがいると信じることで、自分の心を穏やかにさせる事できます。
姿形が無いので、それを補完して具現化する為、神様の姿をした彫像や、色々な言葉が書かれた紙を用意して手を合わせる事もあります。
何も無いはずなのに、それをあるものだと補完する能力が人間にはあるようです。
それが時には良い方向へ作用する場合もありますし、逆もあります。
満たそうとする欲求が人間にはあるのでしょうね。
それがあるお陰で世界は「向上心」の名のもとに、経済的にも文化的にも発展していったのでしょう。
「空間」や「間」に対して私は若い頃、不安で仕方がありませんでした。
例えば、本棚に隙間があれば、それを埋めようと書籍やCDを買い込み、その隙間へ入れていきました。
いつしかそれが逆に感じるようになり、あまりにも隙間が無いとかえって「所有する事へのストレス、管理することへのストレス」となり、モノを持ちたくなくなりました。
そして、モノとモノとの間にある空間が、心を穏やかにさせるようになったのです。
人との間もそう。
以前は、人との間にほんの少しでも距離(物理的、精神的)ができると、「相手に嫌われているのかな?」と不安に感じ、距離を縮めようとしました。
今では相手との間に、丁度良い距離を保つことで、お互いを尊重し、笑顔でいられるようになりました。
逆に、ズケズケと自分の空間へ歩み寄る人に対し、抵抗感を持つようになりました。
冒頭から色んな例を述べましたが、埋めようとする行為・満たそうとする行為を行う人の方が、世の中には多いと思います。
「物欲」なんていうのもそうでしょう。
「恋愛」というものもそうでしょう。
しかし何故か私は、満たそうとしない事で心が落ち着き始めているのです。
空間は空間として存在し、そこを埋めようと考えないのです。
むしろ、その「空間」や「間」に美徳を感じるのです。
こういう風に感じることそのものも、「何も無いのに想像で補完しようとする能力」の一部なのでしょうけれどね。
私達人間はモノだけではなく、「空間」や「間」を手に入れる事も出来るのです。
そういうものには、手間隙はかかりません。
そう思う心だけが必要なのです。
今、「消費の時代」が終わろうとしています。
その次に来るのは何か?
私はきっと、「空間」や「間」を尊重できる時代になるのではないかと思っています。
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