「くつやのマルチン」というトルストイの童話があります。
マルチンは老いた靴屋。
妻と息子に先立たれ、生きる希望を失って引きこもっています。
牧師から、古い聖書のとじ直しを頼まれます。
その夜、聖書を読みながら眠ると、神のお告げがあります。
「明日、おまえを訪ねるからね」と。
翌日、神様を出迎えるために掃除をしていました。
その時、外の雪かきをしている掃除人に温かい紅茶をごちそうしました。
赤ちゃんを抱いた婦人が、真冬なのにコートも着ないで歩いていました。
家に招き入れて温まってもらい、パンとシチューを食べさせ、自分の肩掛けをあげました。
りんご売りのおばあさんから、貧しい少年がりんごを奪って逃げました。
マルチンは少年をつかまえ、おばあさんには子供を許してくれと頼み、子供にはりんごを一つ買って手渡しました。
その日、神様は現れませんでした。
しかし、自分が一番あわれだと思っていたマルチンは、もっとかわいそうな人がいることに気づきます。
自分のような者でも、人にやさしくしてあげられることがわかり、なんだか心の中がとても温かくなっていくのでした。
その夜、マルチンが聖書を開くと神があらわれ、「今日おまえが出会った者たちはすべて私だよ」と語ります。
※
この童話の原題は「愛あるところに、神もある」。
私達が愛のある行動をとるとき、そこに神がおられるのだという内容です。
すべてのものを神のように大切に扱えば、心豊かにあたたかい気持ちになれ、孤独や不幸な思いは消えてしまうのです。
マルチンが出会った人たちは、皆孤独な人。
失意で閉じこもっていたときには、誰一人、マルチンの目には映らなかった人たちです。
そして、マルチン自身も、誰からも見てもらえない存在だったのです。
孤独や死は怖いですが、もっと恐ろしいのは、存在を無視されながら生きること。
愛をもって行動していけば、そこには必ず、つながりが生まれ、孤独から抜け出せるのです。
愛を自分から投げかけられる人は、どんな状況でも再出発できるのです。
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上記は、湯川久子さんの「ほどよく距離を置きなさい」の一節です。
90歳を超え、なお現役の弁護士です。
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この一節のタイトルは、「誰かに投げかけたものは同じ顔をして返ってくる」でした。
ある意味、怖いタイトルでもあります。
冒頭の物語のように、人にやさしくすれば、自分にもやさしさが返ってきます。
しかし、逆もしかりだからです。
悪意を向ければ、同じようにされます。
私自身、相手を尊重するようにします。
やさしいとは違うかもしれませんが、少なくとも相手がどんな立場であろうが、下に見ることだけはしません。
言葉遣いは気をつけているつもりです。
見返りを求める為だけのやさしさは、やさしさではないですよね、多分。
相手にやさしくしたのに、礼の一つも無いと憤慨する人もいます。
そもそも、相手にやさしくするのは、当たり前のことだと思うのですが。
※
歳を重ね、完璧主義をしたくても心身共に追いつけない状態になると、いい感じに「いい加減」になります。
そうすると人に対しても、そこまでこだわらないため、怒ったり感情をぶつけたりする機会が減ります。
他人に期待をしなくなるのでしょうかね。
(歳を重ね、正反対の性格になる人もいるようですが・・・)
現代の社会の仕組みは、ある意味、完璧主義で成立しています。
電車の正確な時刻とか、年中無休のコンビニなど。
みなさんのお仕事も、自分自身が完璧にこなせるのが大前提で、多くの人と連携しているんじゃないでしょうか。
どこかに「ズレ」があると、その後がすべてうまくいかなくなるみたいな。
完璧主義が大前提の世の中は、あまり他人にやさしくありません。
「自分がちゃんとやっているのに、他人がちゃんとやってくれないのは許せない」という心になってしまうからです。
誰かに投げかけたものは同じ顔をして返ってくるの理論から言えば、全員から笑顔が消えてしまいますよね。
もうちょい、いい加減でも成立する世の中になってほしいと思っています。
笑顔で生きたいですもの。
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