2021年12月13日

不機嫌ではない生き方

notfukigen.JPG

●『50歳からの孤独入門 (朝日新書)』(齋藤 孝 著)より


「人間ぎらい」と聞くと、たとえば偏屈で文句ばかり言い、周囲に不機嫌をまき散らすような人を想像するかもしれません。
不機嫌よりも上機嫌のほうがいいのは当たり前です。


私の近著『不機嫌は罪である』で書いたように、不機嫌は社会を悪くすると考えています。
しかし、人間ぎらいと不機嫌は必ずしも同じではありません。


つげ義春『無能の人』の「石を売る」ではないですが、石を磨いていて落ち着いているおじさんは、不機嫌というわけではありません。
人に迷惑をかけていない点で立派とも言えます。


あるいは落語の「豊竹屋」に、なんでも義太夫節にして語ってしまう男が出てきます。
みんなが聞かせられるとなると迷惑かもしれませんが、当人が満足しているならそれでいい。


そう考えていけば、「人間ぎらい」も一つの成熟の形なのかもしれません。
若いときであれば、生活していくために無理しても適応することが要求されます。


しかし50歳にもなると、すでにある程度社会に適応できた結果として今があります。
その経験があるため、ちょっと「流し運転」でもいいわけです。


もし自分の中に「人間ぎらい」という性質があったとしたら、中高年になったときにそれを不機嫌ではない形で落ち着かせていくことは、決して悪いことではありません。


※※※


社会に適応するために自分を調整する。
折り合いをつける際、「不機嫌ではない形」で調整すると良いのですね。


周囲にご迷惑をかけず、その上で自分が不機嫌にならない形。
それが、世間一般で「普通」と言われる生き方じゃなくてもよいのではないか。


最近、この先の生き方について考えるようになりました。
考えないでのほほんと生きられれば良かったのですが、考えてしまったが故に悩んでしまうわけです。


せめて、不機嫌ではない生き方をしたいものです。
Posted by kanzaki at 2021年12月13日 06:56