(先月、プレミアムバンダイから届きました。早く作りたいですねえ)
●『心配事の9割は起こらない―――減らす、手放す、忘れる「禅の教え」 三笠書房 電子書籍』(枡野 俊明 著)より
こんな川柳があります。
「欠け椀も もとは吉野の 桜なり」
いまでこそ、このようなみすぼらしい欠けた椀の姿に身をやつしているが、もとをただせば吉野の山にみごとに咲き誇り、大勢の人たちに「おぉ、なんと美しい!」と感嘆の声を上げさせた堂々たる一本桜だったのだ、というわけです。
これは、過去の栄光、栄誉が現在を生きる「よりどころ」になっている姿です。
この「吉野桜」ばかりではありません。
なにかにつけて輝かしい過去を持ち出す人は、決して少なくないような気がするのです。
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過去にいつまでもこだわっていることは、そのまま、いまの生き方に対する自信のなさを表明していることです。
そこに不安や悩み、心配事が心に入り込む隙が生まれます。
もっといえば、現在の自分を蔑ろにしていることにも等しい、とはいえないでしょうか。
私たちには「いま」をどう生きるかしかない、ということをあらためてしっかり胸に刻んでください。
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【コメント】
「欠け椀も もとは吉野の 桜なり」
私なんかはこの川柳を
「過去に栄光があった人が、最後の最後まで誰かの役に立てるならばと、姿を変えて活躍し続ける」
と解釈しました。
この欠け椀である現在への称賛です。
そういう解釈であったとしても、過去に縛られない生き方ととらえられるのかなと。
あとは、その過去の栄光をいまだに自慢話として口にするかしないかです。
私の最近の生き方は、
「距離を置いた方が良い人とは、無理せず距離を置く」
「信頼できる人とだけ話す」
という感じです。
無理して人間関係を広げなくても良いのかなと。
若い人ならば別ですが。
そのうえで、自分がどのように社会と接し、貢献できるかを模索しています。