2003年08月29日

思い出に残る食事

1 名前: もの食うひと 投稿日: 2000/02/26(土) 17:14

いや、うまい・まずいはどうでもいいんだ。なんか状況とともに思い出すってやつ。
おれは5年前に好きだった女の子と食ったスパゲッティだ。柄にも無く、神戸のイタメシ屋でボンゴレなんぞを食していたのよ。相変わらず面白く もない冗談連発してた。
そしたら彼女が突然泣き出したんだ。くわしい事情は省くが、おれにはどうすることもできない話だった。
おれはただズルズルとスパゲッティ食ってたよ。
今日、あさりのスパゲッティを食って、突然そのときのことを思い出した。
あのときの彼女の表情や声がくっきりと蘇ってきたんだ。
それでなんか食い物ってすごいなと思ったわけだ。
みんなにはこんな経験ないだろうか? あったらぜひ教えてほしい。


252 名前: さばおどり 投稿日: 2000/03/27(月) 06:54

私が8歳で、弟が5歳の頃の話です。
当時、母が病気で入院してしまい、父は単身赴任中であることから、私達は祖母(父方)の家に預けられておりました。
母や私達を嫌っていた祖母は、朝から夜遅くまで舞踊のお稽古に行き、私達の世話は一切しませんでした。そこで、私達はいつも近所に住むAさんという人のいいかたの家でご飯をいただいておりました。
ある日、母が一日だけの許可をもらって退院してきました。
本当は体がとてもきつかっただろうに、母は甘えつく私達を何回も抱っこしてくれました。
夜は、三人で歌いながらハンバーグをこねて作りました。
「今日はお母さんが帰ってきたから、ご飯はお家で食べます!」
Aさんの家に挨拶に行った時の弟の、何か誇らしげな表情を見て嬉しくなった私は、その紅潮した頬っぺたに何度も自分の頬っぺたを擦りつけて家に帰りました。
家に着くと、既に料理が食卓に並べられていた。母は暖かい牛乳を差し出して、
「おばあちゃんが帰ってきたから、ちょっと待っていてね。みんなで食べようね。」
と言った。私達がAさんの家に行っている間に帰ってきたようだ。しばらくすると、
着物から着替えてきた祖母が台所に入ってきた。
「お義母さん、お食事の用意できていますので、どうぞお掛けになってください。」
その母の言葉を遮るように祖母は、「病人の作ったものが食べられますか!何が感染するかわからないのに…」と言って、母の作った料理を全て残飯の入ったごみ袋の中に捨てていきました。
「も、申し訳ありません…」
さっきまでニコニコしていた母の顔から一気に血の気が引いていきました。
私は(どうしよう!どうしよう!)とただただ混乱していました。
「バカヤロウ!」
突然、弟が叫んで、祖母からごみ袋をひったくりました。
仁王立ちになった弟は、祖母をにらみつけながら、ごみ袋から母の作ったご飯を手ですくって食べ始めました。
「俺はなぁ… 俺はなぁ…」
後の言葉が出てこずに、目から涙をボロボロとこぼしながら、弟は食べました。
小さな肩を震わせて、必死に強がって…
そんな弟を見て、私も大泣きしながらごみ袋からハンバーグを掴み取って食べました。
「もう、いいのよ。やめて。二人とも。いいのよ。お願いだから…」
泣きながら止める母の声も無視して、私達はむさぼり続けました。
これが私達姉弟の、母の最後の味。悲しさと悔しさの恨みの味…


364 名前: 名無しさん 投稿日: 2000/04/11(火) 21:28

旦那が夜働いているから、私が残業すると家には腹を減らした子供達と呆けたお姑さんだけになってしまう。
お姑さんは呆けていても、腹が減ればなんか食べるが、当時、小学校3年生を頭に、離乳食を終わったばかりの子供までが腹を減らしたまんま私の帰りを待つことになるので、なるべく、遅くなりそうな日は旦那に作ってもらうか、出かける前に支度しておくようにしていた。
ある日、何の支度もしていないのにどうしても翌日の朝一番の会議の資料を作らなければならないときがあった。
旦那はその日は早出で、子供を保育園に迎えに行き、家に連れ帰ったら即座に出勤しなければならなかった。
とにかく、ご飯は炊いてあったので、ふりかけで食べなさいと子供に電話をかけ、なんとか仕事を終わらせ夜遅くに家に帰った。
子供達はとうに寝床に入り、気配はなかった。
夕御飯、一番下のちびもちゃんと食べられたかどうか心配しながら台所にはいると、納豆臭いのである。子供達がみんな揃って納豆を食べた後があった。
そして、テーブルの上にはへたくそな字で長女の手紙。
「ママ、おしごとたいへんだね。ふりかけがなかったから、なっとうつくったよ。
みんなおかわりしたからママのぶんなくなったの。ごめんね。キムチでご飯たべてね。」
そんなことが書いてあった。
子供達が悪戦苦闘して納豆を作ってご飯を食べる様子を想像して、
笑えてきて、仕事の疲れは吹っ飛んだ。
もう、家のお手伝いしてもらえるぐらい、子供が大きくなったんだと思うと、妙に幸せな気分になった。
次の日、納豆を自分で作ったことと、ちびにそれをちゃんと食べさせたことで、
普段はおこりんぼの私もむやみやたらと上機嫌で娘を褒め称えたのであった。

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上記は、悪名高き「2ちゃんねる」において、奇跡の名スレッドと賞賛された『思い出に残る食事』の一部抜粋です。
1000本以上投稿された「忘れられない食事」の体験談より83本を厳選し収録した本が刊行されました。
最近、感動して泣いたりする事の少なくなった方にお勧めの本です。

食事ってすごいですよね。
それを通して、いろんなエピソードというものが思い浮かびあがるものです。
私には、上記に御紹介したような泣けるほどの思い出というのはありません。
けれど、食事を通した思い出ならばたくさんあります。

例えばお弁当。
中学の時、毎日学校へお弁当を持っていったのですが、貧乏だし、母子家庭なので母は仕事で忙しくて、とても手の込んだものを作る時間がありませんでした。
そんな時のお弁当ですから、いつも弁当箱の中は、白いご飯、卵焼き、焼いたシャケという構成でした。
当時は馬鹿なガキでしたので、一生懸命に毎日作ってくれる母のありがたみ等を分からず、「何でいつも、同じものばっかなんだよっ!」等とほざいておりました。
そんなある日、弁当箱を開いてみると、いつもと違ってたくさんのオカズで彩られていました。
私は、お弁当箱にご飯が少しで、一口サイズのオカズがたくさん入っているお弁当が大好きでした。
目の前に、そのお気に入りのお弁当があり、とても喜びました。
けれど、何だか母の作る料理と形も味付けも違う。
よく見ますと、白いご飯の一部が赤色に染まっていました。
梅干が乗っかっていたのを取り外した事が明らかでした。
そして気づいたのです。
このお弁当箱に入っているのは、弁当屋かコンビニで買ってきたお弁当をそのまま移し変えただけのものだったのです。
いつも、白いご飯・卵焼き・焼いたシャケという三色のお弁当を嫌がっていた息子に、何とか喜んでもらいたい。少ない時間の中で思いついた策だったのです。
それに気づいた私は、心の中で、反省をしていました。

Posted by kanzaki at 2003年08月29日 22:50
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