2004年11月25日

親と子について

<<19歳が鉄亜鈴で両親殺害 大学行かず責められ>>

24日午前3時15分ごろ、水戸市の無職少年(19)から「両親を殺した」と110番があった。
駆け付けた水戸署員が、少年の自宅2階で死亡している両親を発見、自宅にいた少年を殺人の疑いで逮捕した。
調べでは、少年は同日午前零時ごろ、自宅2階で別々の部屋に寝ていた中学校教諭の父(51)と元小学校教諭の母(48)の頭や顔を、自宅にあった4キロの鉄亜鈴で10回程度殴って殺害した疑い。
少年は両親と祖父(76)、今年中学を卒業した妹(16)の5人暮らし。
当初「衝動的に殺した」と話していたが、その後の調べに対し「大学に入らなかったので両親から『習い事をしろ』と言われ、祖父からも『何をやっているんだ』と責められたので、皆殺しにしてやろうと思った。(父母を殺害したところで)力がうせてしまった」と供述している。
少年は取り調べに冷静に応じており「はじめから犯行後に通報するつもりだった」などと供述しているという。


<<「両親と姉殺した」、通報の28歳を逮捕 茨城・土浦>>

25日午前8時半ごろ、茨城県土浦市中高津1丁目の同市役所職員飯嶋一美さん(57)方から「両親と姉を殺した」と110番通報があった。
駆けつけた土浦署員が、自宅で血を流して死亡している飯嶋さんと妻の澄子さん(54)、長女の石津幸江(ゆきえ)さん(31)=東京都板橋区=を発見。現場にいた長男で無職の勝容疑者(28)が「3人とも自分が殺した」と話したため、殺人容疑で緊急逮捕した。
飯嶋さん方は、飯嶋さん夫婦と勝容疑者の3人暮らし。
石津さんはたまたま長男(11カ月)を連れて里帰りしていたという。
勝容疑者は調べに対し、以前から家族と仲が悪かったと説明、「いつか自分が家族に殺される。殺される前に家族を殺そうと思った」などと供述しているという。
調べによると、勝容疑者は24日正午ごろ、自宅で澄子さんを包丁で刺して殺害、30分後に幸江さんを包丁で刺したうえ、金づちで殴って殺し、さらに同夜、帰宅した飯嶋さんを金づちで殴って殺害した疑い。
幸江さんの長男はけがもなく、澄子さんの遺体のそばにいたところを保護されたという。
土浦市役所によると、飯嶋さんは交通安全課長や農林水産課長を経て、今年4月から同市立博物館の副館長を務めていた。現場は土浦市役所から西に約1キロの住宅地。


同じような事件が、立て続けに起きました。
いつの時代にも似たような事件は起きるものでして、有名なのは「金属バット殺人事件」かと思います。

「金属バット殺人事件」

−経緯−
昭和55年11月29日午前2時30分頃、神奈川県川崎市の一柳幹夫さん(当時46歳)宅で就寝中の父親に向けて、次男の一柳展也(当時20歳)が金属バットで殴打した。
父親は声を立てる間もなく頭を割られて即死。
続いて、別室で寝ていた母親・千恵子さん(当時46歳)も同様に殺害した。
傷は頭と顔に集中し顔から頭にかけて割れ人相の判別ができなかった。
現場検証した警察官達がたじろくほどであったという。
展也は犯行後、金属バットを風呂場で洗い返り血を浴びた服を着替え、室内を荒らして強盗殺人に見せかけるべく第一発見者を装った。
だか、翌日になって捜査員の質問に曖昧な部分があり厳しく追求した結果、犯行を自供し逮捕された。

−親の期待と負担−
展也の家庭は、東大卒の父親と短大出の母親、兄が早大卒のエリート家庭。
しかも、父親と兄は一流会社勤務に対して、展也は早大など多数の大学受験に失敗しニ浪中であった。
その後の裁判で、父親のキャッシュカードから1万円を抜き取ったこと、部屋でウイスキーを飲んだことで父親から罵倒されたことが判明。
二浪で不安定な精神状態にあって父親からの罵倒が鬱積し衝動的に犯行におよんだと供述した。子供の時から「この子には反抗期がない」と母親が言うほど手間がかからなかった展也が、心に貯めていた封印を取り外した瞬間に殺意を爆発させたのだろうか。
昭和59年4月25日、横浜地裁・川崎支部は展也に対して「懲役13年」を言い渡した(求刑18年)。
判決後の展也は「温情のある判決」と弁護士を通じてコメント。
控訴せず結審した。


・・・この殺人事件だったでしょうか、確か殺害した息子は、母親を殺害後、布団を母親の遺体に掛けているのですよね。
今回の19歳が鉄亜鈴で両親を殺害した事件と、殺害に至った理由と似たところがあります。
「親の期待」に対する重圧。
しかし今回の殺人では、殺害後にテレビを見ていたと云うところが、ちょっと違います。
つまり、殺害して精神がパニックになったのでもなければ、冷静さを取り戻し、心の中で葛藤があった訳でもない。
しかも、皆殺ししようと思ったけれど、父母を殺害したところで力がうせてしまったから、それ以上の殺害は止めたというのが恐ろしい。

きっと大人は、デジタル世代の起こした殺人事件と捉えるでしょう。
けれどね、そんなデジタル時代で、そんなデジタル機器にどっぷりと浸かっている人間だからって、全ての人間がそのような行動を起こすわけではありません。
デジタル人間と呼ばれる世代は、「0」と「1」の両極端な反応を示すとしても、考えが「(良い意味で)打算的・利己的」なので、「殺害したら、自分の人生を棒に振る」→「せっかく大学に入学までしたのに」→「だから、殺害しない」と考えると思います(今回の犯人は、進学で失敗した人のようですが)。
つまり、葛藤という曖昧な時期が少ない訳ですよ。
これはこれで、アリだと思う。
頭の中でモヤモヤしている間は、次の行動に踏み出せませんから、勉強とか技術の取得する為の期間がどんどん減っていきます。
さっさと頭を切り換えて、前へ進むという意味では、デジタル世代の思考も悪くないと思います。

・・・と、いかにも大人が考えそうな理論を書いてみましたが、本当にそうなのか分かりません。
登校拒否したいと思えば、親も学校も許してしまう。
仕事をしたくなければ、ニートと云う道も成立してしまう。
そういう、「昔だったら、人や社会が駄目だと云ったら、もう従うしかない」みたいな強迫感というか、やらざるを得ないというのが無くなったせいでしょうね。きっと。
ダダをこねれば通ずる時代。
極端な殺人事件はいつの時代にもあるけれど、登校拒否やニートは現代の風潮で、どこの街でも起こっている事です。

受動的・能動的は別として、親との死に別れで思い起こすのは、昨晩、J-WAVEというFM局でオンエアされていた平井 堅さんの番組です。
毎週水曜日・夜10時から放送されていまして、阿保トーク炸裂で非常面白い番組です。
そんな平井さんが、番組終了間際の時間、急にトーンを落として真面目な口調で話しだしました。
平井さんにとって重大な内容。
それを、ラジオのリスナーという、ファンの中でも特に大事にしている人達に話しておかなければいけない事だと口にしました。
先週19日・金曜日、平井さんのお父さんが亡くなられたそうです。
ちょうど平井さんは生放送に出演最中でして、精神的なものを考慮して、スタッフから番組終了後にそれを聞かされました。
平井さんのお父さんは、確か癌だったと思います。
闘病生活というのは本人だけでなく、家族も大変です。
平井さんも週に1,2回は実家へ帰り、父親を見舞っていたそうです。
東京から実家の関西への往復は大変だったでしょうね。
しかも、今や時の人ですから。
平井さんのお父さんは、ご自身の病気に対して悲観的にならず、書籍やインターネットで色々と調べ、病気と闘っていたそうです。
そしてこの年末、平井さんのアコースティックライブ「Ken's BAR」を観にいくのが当面の目標だったそうです。
いつもですと、もっと各地で多く行うライブだそうですが、今年は平井さんもお父さんの事が心配なので、開催地を少なくしたそうです。
残念ながら、その年末のライブにお父さんを連れて行く事が出来ませんでした。
平井さんの実家には、絶対に入ってはいけない部屋というのがあったらしく、お父さんは平井さんをその中へ入る事を禁止していました。
けれど平井さんは、こっそりとその部屋の中へ入ったそうです。
そこには、平井さんがデビューした当時からの、彼が掲載された雑誌や新聞等があったそうです。
平井さんは二人兄弟(お姉さんがいたんじゃなかったかな?)で、二人ともお父さんの仕事を継がなかったのに、そういう道を進む事を許してくれたお父さんに感謝しているそうです。
そんなお父さんの思い出を語った後、父への歌「キャッチ ボール」という曲が流れました。

それを聞いて私は、昨年の福岡でのコンサートで「キャッチ ボール」を歌った際、自分のお父さんについて語っていた事を思い出しました。
お父さんは、平井さんのコンサートによく来てくれるそうで、楽屋にも訪れていたそうです。
汚い格好で来るので文句を云ったら、次からめちゃくちゃカッコいい姿でやってきて、スタッフやダンサーから好評を得ていたとか。
そんな話しをジョークを交えて話していました。

肉親との別れ・・・辛いですよね。
何せ、親孝行したい、もっと会話したい、もっと優しくしたいと思っても、もう二度と出来ないのです。
私の場合、父を小学校5年生の時に亡くしましたので、成人になってからの別れの辛さというものは分かりません。
父は漁師で、飲んだ暮れの暴力親父だった為、そんなに良い思いでも無いし、殆ど海に出ているから接する時間もありませんでした。
だからでしょうか、夕暮れ時、たった一回だけやったキャッチボールが鮮明に記憶として焼きついています。
野球部で使う新しいグローブを買ってもらった時の事です。
プロ野球が新潟に来た時も、学校の子達が外野席の安い座席で観戦していたのに、私は父親が確保した内野席で見ることが出来ました。
漁師だけあり、細い体形なのにめちゃくちゃ筋肉が凄く、多分、新潟でこの父親と格闘して勝てる人間はいないであろうと思っていました。
おっかない部分はあるのですが、それでも、そういう強さみたいなものには憧れていました。

父は、遠洋漁業で北海道に半年ほど行っていました。
そして北海道から帰る日、ちょうど海が荒れて帰る事が出来なくなったのです。
長距離電話でそういう事情を聞かされた後、「北海道から帰る際、何かオモチャを買ってきてやるから何がいい?」と聞かれ、その当時、一番かっこ良かったヒーローのオモチャが欲しいと云ったら、快く了承してくれました。
父との会話はそれが最後でした。
その後、海で遭難して、天国へ行ってしまいました。
母が北海道から遺骨を持って帰ってきた際、空港に私達兄弟が迎えに行きました。
母が持っている小さな白い箱を見て、弟が「それは何?」と母に聞きました。
母は「お父さんだよ」と云うと、弟は「随分、小さくなっちゃったね」と、割りと平坦な口調で返しました。
悪意は全くないのです。
ただ、まだ小学校一年生で、死という概念が無かったからでしょうね。
そして、私達兄弟は母から、父に御願いしていたヒーローのオモチャを受け取りました。
母は、父が買ってくれたものだと云ってましたが、事故の経緯から見ても、それを買う余裕は無く、きっとこれは、母が買ったものだと私は思いました。
けれど、何も云わずに受け取りました。
お通夜の前、私と弟は母に物陰に連れて行かれ、三人して思いっきり泣き、葬儀の場では絶対に泣かないと約束しました。


親との別れには、いろんな形があります。
けれど、自分の手でその別れまでの時間を早めるのはやめましょうよ。
大抵の事は時間が解決してくれるけれど、親との別れに関しては、時間が経過すれば心は癒されますが、形としては取り戻すことが出来ないのですから。

Posted by kanzaki at 2004年11月25日 21:00 | トラックバック (0)