2007年03月19日

過剰反応・無反応

花粉症のみなさんは、今の時期、非常に大変かと思います。
幸い、今年の花粉飛散量は少ない方らしいです。
けれど、鼻水、目のかゆみ、くしゃみが全くなくなる訳ではありません。
風邪と違って、いつ治るのか分からないのが嫌なところですよね。
そして、何をしている最中にも鼻水などが気になって仕方がありません。

私は幸い、花粉症ではありません。
しかし、花粉症の辛さを理解しているつもりです。
私の場合、「古い書類アレルギー」なのです。
株式関係の仕事をしていると、自分が生まれる前に作成された書類に目を通すこともしばしば。
年季の入った倉庫に押し込まれている、これまた年季の入った書類を取り出し、パラパラとめくっていると・・・ハックョン!!
くしゃみに始まり、鼻水などの症状があらわれます。
こうなると、もう止まりません。
古い書類に対してアレルギー反応があると云うより、埃に弱いだけなのかもしれませんが、とにかく一連の症状には悩まされ続けています。
幸い花粉症と違い、本当に一時的なことなので、帰宅して翌朝には症状がケロッと治っているのはありがたい。

こういった身体の異変までいかなくても、日常生活の中で過剰反応することって幾つかあります。

例えば、本屋や雑貨屋等の入り口にある「万引き感知器」。
入り口の左右に板状のものが立っており、人はその間を通り抜けます。
もし、精算をしていないモノを持ったまま外へ出ようとすると、強烈なアラームが鳴って万引きを知らせます。
私は万引きをしている訳じゃないのに、通るときに緊張してしまいます。
何故か、店に入るときにも緊張。
おいおいと、自分に突っ込みを入れたくなるような過剰反応ぶりです。

他にも、普通に街の中を自動車で運転している最中、パトカーを見かけると過剰反応してしまいます。
スピードを異常に落とし、ハンドルも10時10分の位置に両手で綺麗に握ってしまいます。
パトカーのパトライトが赤く光り、サイレンを鳴らした日には、「もしかして、俺を逮捕する気か?」と冷や汗。
別に、何もやましい事なんてしていないのに・・・。

逆に反応が鈍くなってきたところもあります。

例えば、相手の肩書きに対しての反応。
凄い肩書きの名刺を渡されても、そういう人達に対して緊張したり、ドギマギしなくなりました。
特殊な職種の人が相手でもそうですし、ルックスが良い人相手でも同じです。
何故かと云えば、「所詮、同じ人間じゃん」と思い始めたからです。
寝て、起きて、飯を食って、糞して、また寝て・・・やっている事なんて皆同じですもの。
それと、肩書きが凄いからと云って、本人の人間性まで凄いとは限らない事も分かったからです。
むしろ、ごく普通に生活している人から聞く内容の方に影響される事が多いです。

世間でチヤホヤされている有名人の発する言葉をよく聴いてみてください。
そういう人達に共通するしゃべり方に共通するのが、「世間一般の人ならば誰でも知っていそうな有名人の名前」が必ず出てくることです。
そういう人達と面識があると云う事で、自分の凄さをアピールするのです。

「私の経営する店で取り扱っている商品は、ベッカム夫妻も愛用している。彼らとはパーティー等でよく一緒になる」

そんな感じの言葉を聴いたりしません?
自分をアピールする為、有名人・凄い人の名前を出すのを聴く度に、
「・・・で、それが何か?」
と聞き返したくなります。

どこぞの集団でも会員を増やそうと、そこに所属している芸能人を使ってアピールしていますよね。
「そんな有名人が入っているならば私も入会しよう・・・」
そんな風に、ふらふらと門を叩く人も多く存在します。
なんで、その有名人と自分を同列に並べて考えるのでしょうか。
生き方も、悩みも、欲望も違うのに。

そういう類に関しては、本当に無反応になりました。

また、テレビ等のメディアが盛り上げようとしている内容にも無反応になりました。
昔ならば、発信者側が作りあげた流行に、何も考えずに釣られていたのに。
けれど、メディアに対しての疑心暗鬼については、多くの人が感じていることなんじゃないでしょうか?
そういうものには反応が鈍い方がいいかもと思うことさえあります。

人って年齢を重ねるにつれ、過剰反応する部分と無反応になるところが変化していくものです。
そういや、「死」に対してはどうなんでしょうね。
私の祖父、祖母は、それに対しては非常に穏やかだった印象があります。
何故なんだろう。
それは自分自身が同じ年齢にならないと理解できないのかもしれない。
おそらく「死」に対しては、「過剰反応」とか「無反応」とか、そういう行動で考えるのではないのかもしれません。
どっちかと云うと、「受け入れる」と云う表現が正しいのかもしれません。

「受け入れる」と云う言葉。
これはひょっとしたら、過剰反応で困っている人達にとっての救済措置なのかもしれません。

とても悩み苦しんだ病気。
けれど、その病気になったからこそ見えてきたこともある。
そう見えたのは、それを受け入れたからなのでは。
そうじゃなければ、ただ単にもがき苦しむだけで、回りが見えてきませんもの。

「受け入れること」だけでは、決して解決にはなりません。
けれど、その人にとっては光の筋。
世の中、必ずしもゴールがある物事ばかりじゃありません。
そして、ずっと歩み続けなくてはいけないことならば尚更、それを受け入れる心を持つのは、本人にとって非常に良いことなのではないでしょうか?

Posted by kanzaki at 2007年03月19日 23:12