2008年01月19日

ウーロン茶世代とは

最近は帰宅して、食事に風呂と必要最低限なことをしたら、あとは22時〜23時の間に寝てしまいます。
そして、4時30分〜5時30分の間に起床。
朝の天気を見て、会社へ自転車で行くか、徒歩で行くかを決め、何時に家を出るかを考えます。
そこから逆算して、それまでの間の行動を考えます。
同じ3時間ならば、夜の3時間より、朝の3時間の方が有効に使えますね。
まず、テレビ、ラジオ、ネットなどが大きく活動していない。
世間も当然、動きが止まっている。
知り合いも会社の人も、私の生活に介入できない時間。
他人の生き方に左右されないですみます。
それで何をしているかと言うと、そんな大それたことをしているわけではありませんよ。
ネットラジオで音楽を聞きながら、コーヒーカップを片手に、高校レベルの勉強をしているだけでして、あまり実生活に役立つものではありませんけれどね。

この年齢になって、メディアや他人に左右されるような生活に疲れてしまい、自分のリズムで平凡に生活をすることに居心地の良さを感じてきたのです。
その中で出てきたのが、朝型生活。
自分のペースで自分の行動を決められる生活はいいですね。
日中の仕事に影響もありませんし、他人に迷惑をかけなくてすみます。
そういう、「ガス抜き」みたいなことが出来るからこそ、色んな人と会って楽しく接することが出来るのだと思います(私は人嫌いでも、一人でいることだけが好きな人間でもありません)。

こんな生活をはじめて分かったのは、「私は【ウーロン茶世代】なんだなあ」と思うことです。
この「ウーロン茶世代」という言葉は、雑誌PRESIDENT(2008.2.4)にて、作詞家の秋元康さんが口にした言葉です。

ウーロン茶世代とは、「これじゃなきゃいけない」というものを持たない人たち、「どっちでもいいや」と流される人たちのことを言います。

お店で「絶対にウーロン茶が飲みたい」という人はあまりいません。
本当はビールが飲みたいんだけれど、車で来たからウーロン茶を注文する。
あるいは、ジュースを飲みたいけれど、ダイエットをしているからウーロン茶で我慢する。
ウーロン茶は、「とりあえずウーロン茶でいいや」という、どっちつかずのポジションなのです。

そういや、今日からセンター試験が始まりましたね。
昨今の偏差値教育は、ウーロン茶世代を生み出すきっかけとなりました。
昔ならば「●●大学へ入りたい」とか、「どうしても●●大学へ行きたい」という学生がいました。
そういう人たちは併願ではなく、単願で受験をしました。
でも今は、自分の偏差値に合わせて、合格圏内から第一志望、第二志望と優先順位をつけて受験をします。
「絶対にこれがほしい」という願望が薄れています。
社会に出ますと、よほど特別な大学ではない限り、総じて「大卒」と区分されるだけで、あまり出身大学名は関係ありませんしね(昔ならば、社内で出身校同士の派閥とかあったでしょうが、今はそういう事を気にしない会社の方が多いです。うちの会社もそうなりました)。

なにか選択をする時、「別にどっちでもいいんじゃないの」と思うのがウーロン茶世代。
秋元康さんは、団塊世代を拘りのある人たちとし、40代・50代を拘りのない世代としています。
しかし、自分の自己主張を通しても疲れるだけということから、拘りを持たないというのは、それより下の世代である私も同じです。

私は朝型生活をしてから、他人と比べたり競ったりしてもしょうがないと感じはじめました。
他人のブログやmixiを見る機会も減りました。
他人の自慢話を見ても、自分の生活には関係ありませんから。
(大して有用な内容が書いてある訳でもありませんし)

音楽も特定のアーティストに拘りはなく、聴き心地の良いジャンルを流しているネットラジオを聴いていれば十分。
大昔は、まだ無名なアーティストの曲を探して聴き、その人がメジャーになるや、「俺は、昔から知っていたんだぜ」なんていう、中二病のような事をしていましたが、今は恥ずかしくてできません。
「めざましテレビ」の芸能コーナーって、そういう傾向が強いですよね。
無名の人を紹介し、メジャーになるや、自分達の手柄のように報道する。
中二病そのものですね。
見ているのが恥ずかしくて、もう見ていません。

車も、必要な時に道具として使えれば十分。
デザインやスペックに拘りはありません。
サイズや安全性に一定の基準があるわけですから、どの会社の車も似てくるのは当然ですよね。
そんな中で、拘りの一品を探す方が難しいと思います。
新車の販売台数が国内市場では減りつつあります。
不景気、低賃金など、いろんなネガティブな要因が大きいのですが、車がウーロン茶のようなポジションになってしまい、特に見栄をはる必要が無くなって来たのも大きいのではないでしょうか。

テレビ番組も殆ど見ません。
自分の人生に影響のあるような番組は、そうそうありませんから。
昔ならば、人との話しの中にテレビ番組が話題に出てきましたが、今は全く無いので、他人との共通した話題として見ておく必要がなくなりました。
ドラマは漫画や小説が原作のものが多くなりました。
もともと話題になっていたものをドラマにしたので、視聴率も良かったのですが、ここ一年ぐらいの傾向を見ますと、原作モノであっても視聴率が10%いかないものが多くなりました。
視聴者もドラマをはじめとして、テレビに飽きてきたのかもしれません。
携帯電話にワンセグ機能搭載のものが多くなってきましたが、「見られる」というだけで、使用頻度の高い人はそうそういません。
そのうちカメラ機能と同じように、「買ったら、たまたま付いていた」程度の機能になるでしょう。

そんな感じになってきたので、物欲に関しては希薄になりました。
そして、話題を追い求め、いろんなところにアンテナを立てる必要はないのかもと思いました。
こんな感じの生活は変かなあと思っていたのですが、ニュース等を見ますと、どうもそうではないようです。
自分と同じ世代以下は、だんだん拘りが無くなって来ているようです。
景気に影響が出てくるかもしれませんが、そんな大局を見て自分の生活を決める必要はありません。
自分にとって気持ちの良い生活が必要なのですから。

拘りのある生活には、お金がかかるものです。
良い商品、希少価値のある商品は、総じて値段が高いですから。
景気も悪く、若年層は収入も不安定。
これじゃあ、何か拘りの一品を買うなんて無理。
私も収入に関しては低空飛行ですが、全くお金が無いわけではありません。
けれど、そんな拘りの一品を購入しても、取り扱いに気を使いすぎて、殆ど何も出来ないのは嫌です。
だから、それほど品質やらなにやらに拘りはありません。

しかし、モノは考えよう。
拘りはなくても、豊かな生活はできるものです。
私の朝型生活は、本当にのんびりできる生活です。
歯磨きや髭剃り等の身支度に要する時間は大して必要ありません。
幸い、会社も近所なので、通勤時間に長時間を割く必要もない。
朝の限られた時間でも、のんびり、ゆっくりと使えるのです。

朝というのは普通はドタバタするものですが、そういう事を一日のはじめからしなくなるのは、精神的に健康になれます。
物欲とかだって結局は、自分の心を満たすための所為。
お金をかけずに精神的に満足をえられるならば、これほど良いことはありません。

幸せについて秋元康さんは、「冷蔵庫の中身」と称して語っています。
冷蔵庫を開けると残り物がある。
それを眺めて、「これじゃあスキヤキはできないな」などと作れない料理ばかり考える人は幸せになれないと。
そうではなく、「これで野菜炒めができるぞ」と思える。
これこそが幸せなんだと。

周囲と比べて「結婚していないから不幸せだ」とか、「マンションを持ってないから不幸せだ」と言う人は、たとえそれら全部を手に入れたとしても、まだ足りないものを探そうとします。

それに対して、独身だろうが、賃貸暮らしだろうが、そんなことは気にせずに、近所の銭湯へ行って、「ここで風呂上りに飲むコーヒー牛乳は最高だね!」と満足して言える人が勝ち。

あのビル・ゲイツでも悩みや不満があるのです。
幸せは物量のように計れません。
遠くにある幸せを探すより、身近な幸せをどれだけ見つけられるかが重要です。

他人にお仕着せされた拘りの生活なんて、もうしなくてもいいんじゃないでしょうかねえ。

Posted by kanzaki at 2008年01月19日 13:25