2008年04月25日

4月25日・・・JR福知山線脱線事故から3年

4月25日は私の誕生日。
気分的には明るくなりたいところなのですが、メディア的には「JR福知山線脱線事故の日」と位置づけられています。
あの事故から3年が経過しました。

今朝のテレビで、当時の事故に遭遇した若者を取材していました。
あの事故から22時間後、奇跡的に助け出された大学生です。
彼は今年大学を卒業し、新たな一歩を踏み出しました。
車椅子を使い・・・。

林浩輝さん(22歳)は、4月から東京で働く社会人一年目です。
彼は3年前、大学へ向かう為に乗った電車によって、大きく運命を変えることになりました。


●JR福知山線脱線事故
http://ja.wikipedia.org/wiki/JR%E7%A6%8F%E7%9F%A5%E5%B1%B1%E7%B7%9A%E8%84%B1%E7%B7%9A%E4%BA%8B%E6%95%85

JR福知山線脱線事故(-ふくちやませんだっせんじこ)は、2005年4月25日午前9時18分頃、西日本旅客鉄道(JR西日本)福知山線(JR宝塚線)塚口〜尼崎駅間で発生、乗客106名・運転士1名の死者を出した列車脱線事故である。
事故列車は、塚口〜尼崎駅間の曲線で脱線して先頭の2両が線路脇のマンションに激突した。
住民への二次的被害はなかったものの、直接的な事故の犠牲者は、死者107名(運転士含む)、負傷者562名を出す未曾有の大惨事となった。
なお、犠牲者の多くは1両目と2両目で発生している。
運転士は圧死、乗客の死因の4割が頭部損傷によるもので窒息や多発外傷・挫滅症候群(クラッシュ症候群)も確認されている。
死亡者の数において、JR発足後としては1991年の信楽高原鐵道列車衝突事故(死者42名)を抜いて過去最大。

●YouTube - JR福知山線脱線事故 臨時ニュース 

林さんは、マンションに突っ込んだ車両の先頭一両目にいたのです。
彼はそこで閉じ込められた状態になりました。


林浩輝さん「余計な体力は使わずに、ただじっと自分の意識が続く限りは耐えようという風に思いました」


林さんの身体は、押し重なった乗客の重みに圧迫され続け、医師は身動きのできない林さんに点滴や酸素吸入を行いました。
現場治療をした中山伸一医師は当時をこう振り返ります。


中山伸一医師「弱音を吐かれたときがありまして。つまり・・・皆さん、お世話になりましたと」


その時の事を林さんも語ります。


林浩輝さん「(林さんの弱音に対して医師は)何を言ってんねん・・・絶対に助け出してやるから・・・って、手をぐっと強く握ってくれて・・・」


林さんは事故発生から22時間後(翌日午前7時7分頃)、最後の生存者として救出されました。
しかし、両足は既に壊死。
命の危機に直面している息子に、ご両親は決断を迫られました。
それは、両足の切断・・・。


母「(当時を振り返り泣き声で)あの・・・やはり親としたら、元気に生まれた子の体をそうしなければいけないことに抵抗がありました」


大学にもどりたい・・・。
4ヵ月後、林さんは義足を付けてリハビリをはじめました。
その努力に、担当した医師も驚きを隠せません。


理学療法士・町田勝広さん「世界的にも前例が無いと思います。この半年間で歩けるようになったのはないかなと思っています」


同志社大学に通っていた林さん。
退院と同時に大学へ戻りました。
京都で一人暮らしもはじめました。
友達のサポートもあり、一緒に卒業を迎えることができました。

卒業式の会場。
最前列に座る林さんが卒業証書を受け取ると、沢山のマスコミのフラッシュ、そしてそれを上回る拍手が巻き起こりました。
当時、テレビの取材に対して林さんは、こう答えています。


林浩輝さん「両親をはじめとして、周りの友達、お世話になったドクター、看護士さん、命を助けてくれた消防士さん、全員に"ありがとう"と言いたいですし、このことを知ってもらいたい。この姿を見せたいと思います」


事故から3年。
生かされた命だからこそ、自分の納得のいく道を歩いていきたい。
林さんの新たな挑戦が始まりました。
彼の新たな挑戦とは、コピーライターになることです。
広告代理店へ就職しました。

ごく普通に生活をしていたのに、ある日を境に人生が変わる。
彼にとってそれは、列車事故でした。
何の前触れもなく、自分の落ち度が無くても災いが起こることがあります。
その不可抗力の事態の中、泣いているだけでは前へ進めません。
人間は、挑戦して生きていくことを決心できる、強い生き物なのです。
林さんの姿には、それを感じさせるものがありました。

私は大学を卒業する直前、脳腫瘍の手術を行いました。
あの時は、「終わったな、俺・・・」と思い、医療関係の書物を読んでは、自分が最悪な事態になることばかりを恐れていました。
悪いことだけを考えるループから抜け出せませんでした。
手術が終わっても、果たして社会生活を出来るのか心配でした。

あれから何年もの月日がたちました。
医師からは、この10年以内に必ず再発すると断言されていたのに、再発はしませんでした。

不思議なものですね。
最初は諦めていた人生なのですが、「生きたい」と欲が出てきました。
そして誕生日のこの日、こんな文章を書いています。

事故に遭われた林さんは、リハビリの時点で既に「生きたい」と挑戦していました。
それに比べて私は、超スロースターターでした。
しかしこうして何とか生きています。

どれぐらい生きられるのかよく分かりませんが、常に挑戦をして進んでいきたいと思っています。
来週は佐渡島へ、ロードバイクで旅へ出ます。
丁度良い機会です。
何かを感じ取ってこようと思います。

ps.

昨日、母から買ってもらったお弁当箱を紹介しました。
本日、会社へ持って行きましたよ。

425-01.jpg

袋の中に何故か、「うまい棒」がオヤツとして入っています(お

425-02.jpg

ご飯は16穀米です。
健康に良いとか関係なしに美味しいので好きです。
お米の美味しさの基準は「甘さ」だと思いますが、16穀米にはその甘さが沢山含まれていて美味しいですよね。

Posted by kanzaki at 2008年04月25日 22:23