2008年09月11日

9月10日は、世界自殺予防デー

中国の大学生の話題にのぼるのは、進学、就職、恋人、起業、住宅だそうです。
対して日本の大学生は、恋人、アルバイト、サークルの事だそうです。

中国の大学生は将来の事について考え、日本の大学生は現在の事について考えます。
中国は1980年代のベビーブームにより、生まれたときから競争を余儀なくされました。
進学、就職、結婚、果ては、医者にかかるのも、住宅を探すのも競争。
競争力を高めるために何でも惜しまない人が多いとか。

なんだか日本人より凄いなあと感心する一方で、実は中国の自殺数は非常に多い事も知られています。

●中国、自殺者年間25万人/格差拡大でストレス高まる
http://news.shikoku-np.co.jp/national/international/200702/20070227000306.htm

年間の自殺による死者は28.7万人、10万人あたりの自殺者は23人、自殺死亡者は全死亡者の3.6%を占めています。
女性の自殺率、農村での自殺率が高く、北京の大学生の4分の1近くが、うつ病にかかっていると伝えられます。
どうも社会的地位が高くても低くても、自殺という行為から逃れられないらしい。

何でまた自殺の事を書いたかといいますと、昨日9月10日は、世界自殺予防デーだったからです。
昨年の日本の自殺者数は3万3093人で、これまでのワースト2位。
今年は硫化水素による集団自殺が、幾つも報道されましたよね。

●神崎のナナメ読み: 新潟県長岡市で硫化水素による集団自殺〜硫化水素による自殺方法は全然、楽でも美しくもない
http://kanzaki.sub.jp/archives/001671.html

自殺者数を見て、その多さに驚きます。
そこいらの戦争による死亡者数の比ではありません。
そして怖いのが、我々が生活しているすぐ隣で起きている事なのです。
先日、私の家の近所で焼身自殺があった事を書きましたが、近所の人にしてみれば驚くべき出来事なのに、地方のテレビ・新聞でも一切取り扱いませんでした。
自殺はそれぐらい当たり前だということなのでしょうか。
(新潟はとりわけ、自殺者数が多い地方ですしね)

自殺の原因と、社会の状況は、大きく結び付いていると思います。
それは誰でも理解できることです。

社会の仕組みって、この30年ぐらいは大きく変わっていないと思います。
何歳ぐらいで就職、結婚、出産、家の購入をするというような、大きな節々・目安には変化はないかと。
しかし、「厳格」ではなくなりました。
実際、就職、結婚、出産、家の購入という大きな人生のイベントを必ずしも全員が体験するものじゃなくなったし、その体験する年齢も人によってまちまちになっています。
多分、「厳格」という言葉の希薄さから来るのではないかと思います。

逆に言えば、人それぞれが自分の生きたいように生きられる、とても柔軟な社会だとも言えます。
しかし、誰しもがそんなにうまく生きられるものではありません。
自由な職業・・・例えばフリーランスで仕事をしている人が多くいますが、彼らはある意味、「フリー(自由)」ではありません。
逆に、自分の作品・能力というものを企業に買ってもらうには、かなりの協調性や交渉術、人脈が必要となるのです。
自由であっても、わがままでは生きていけないのです。
結局、この社会でご飯を食べていくには、他者との関係が重要で、全員がある意味、日本という社会の歯車の一つ一つとして機能しているのです。
その代わり、日常生活を営めるのです。

「厳格」という言葉には強制力があり、本人の意思に反する事も多いです。
しかし、それが良い方向に働いていた時代もあります。
例えば、私が小さい頃は、不登校という存在が殆どありませんでした。
学校で嫌なことがあっても、親も学校も、無理やり登校させていました。
勿論、いじめも存在していましたし、そんなに純粋無垢な人間ばかりではありませんでした。
しかし人は、人と人の間の中でしか成長できないものです。
嫌な事があっても人と接している中で、打開策が見つけられました。

今は同じ状況になっても、親も学校も無理やり登校させようとしません。
これは、「優しさ」という綺麗事で覆った「臭いものには蓋をする」行為です。
蓋をされた人間は、その中でしか生きられず、外的影響も無い代わりに、成長もありません。
無理して学校へ行かなくても良い代わりに、その人間を社会の歯車には使えない「不良品」として見捨ててしまっているのです。

「厳格」という言葉には、怖さや恐れを感じさせる面もありますが、決して「見捨てる」という考えはありません。
何とかして解決策を導こうと、当人だけではなく、周りの親や大人、友人みんなが動いてくれました。

昔の「厳格」には、「全員、●●であるべき!」みたいな、ある意味、個性を尊重しないような面がある代わりに、全員の人生をある程度安定した中で生きられる保証をしてくれました。

今の時代には、それが無くなっています。
一方で、iPodの新型が発表されたとはしゃぐ人もいれば、片方で、住む場所も無く、月末までの生活費の工面に悩み、将来を考えられない人もいる。
そして怖いのが、両者ともお互いの存在をテレビやネットの中でしか確認できず、物理的に接触し、一致団結して行動するなんて事は絶対にない事です。
これは本当の意味で、自由な社会なのでしょうか。

日本のトップにいる首相が、僅か一年で、その任務を簡単に放棄することが出来てしまう社会です。
我々庶民が全員幸せになれるような「厳格」というものは、古い小説の中でしか存在しないのでしょうかねえ。

Posted by kanzaki at 2008年09月11日 22:16