2009年06月13日

金よう夜きらっと新潟「まなざし あたたかく 〜アニメーター近藤喜文〜」〜ジブリ作品『耳をすませば』の監督【1】

今回は、新潟出身のアニメーターをご紹介します。

●近藤喜文 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%97%A4%E5%96%9C%E6%96%87

近藤 喜文(こんどう よしふみ、1950年3月31日 - 1998年1月21日)は、新潟県五泉市出身のアニメーター、アニメーション監督。キャラクターデザイナー。
スタジオジブリの作品『耳をすませば』の監督さんと言えば分かるでしょうね。

●耳をすませば〜地球屋での「カントリーロード」

宮崎駿監督と高畑勲監督の後継者として将来を期待されていましたが、1998年1月21日に解離性大動脈瘤のため47歳の若さでこの世を去りました。

昨日、NHK新潟にて、近藤さんのドキュメント番組を放送していました。
おそらくこの番組を見られたのは新潟の人のみだと思います。
しかし、偉大な才能と志を持ったアニメーターがこの世にいた事をみなさんに知っていただきたいので、この番組を神ナナにてトレースしてみたいと思います。

弟である近藤重喜さん(医者)は、お兄さんをこう語っています。

「アニメ番組のトレースをしなおすのが絵の勉強の一つでした。
学校から帰って部屋に閉じこもり、ひたすら描いていました。
夜の10時を過ぎて、母がお風呂に入れとか飯だとか言っても降りてきませんでした。
自分の中で絵の道へ行くというのは決まっていたようです。
そこへ行くためにずっと続けていたように見えました」

1968年4月、高校を卒業して上京。東京デザインカレッジ・アニメーション科に入学。
1968年10月1日、大塚康生に懇願し、Aプロダクション(現シンエイ動画)に入社。『巨人の星』、『ルパン三世』などに参加。

高校を卒業して18歳の時、東京のアニメーション製作会社へ入社しました。
社内で頭角をあらわすのに時間はかかりませんでした。

近藤さんはアニメーターとして描き、登場人物の動きを設計しました。
めまぐるしく動く顔や身体の動き、近藤さんは「未来少年コナン」にて、アニメーションの鍵となる役割を任されました。

●未来少年コナンの紹介part1

「未来少年コナン」で、ライバルと競争するシーン。
そろった足の運びや独特のリズムで、ライバルに負けたくない気持ちを表現しました。

「パンダコパンダ」というパンダと少女の出会いを描いた物語では、逆立ちや縄跳びといったものを使い、パンダの楽しい気持ちを込めました。

これらの作品の演出を務めた高畑勲さん。
当時から近藤さんの才能に注目していました。

「アニメはあらゆることが表現できるんですね。
ファンタジーのような全く架空のものから非常に現実的なものまで。
その力と言うのは凄いわけですよ。
それを描くのに、他の人はともかく彼は絶対に必用だったんですよ。
彼にやってもらうということが、絶対条件になる感じだったんですよ」

近藤さんは更に表現力を高めていきます。

1979年に放送された「赤毛のアン」。
20歳の近藤さんは全ての絵の責任者である作画監督に抜擢されました。
近藤さんは新たな表現に挑戦します。
派手な動きに頼ることなく細やかな仕草を大切にする事で、絵に感情を吹き込んでいきました
主人公のアンが自分を貰い受けてくれる里親とはじめて出会う場面。
駅のホームや線路の上にて、じっとしていられない細やかなアンの仕草を用いて、不安な感情を表現しました。

高畑勲
「誇りとしてあったのは、生き生きとしたもの、そのリアリティというのかな。
ただの絵空事じゃなくて現実感のあるものとして生き生きとした姿を出さなきゃ話しにならないじゃないかと。
自分はそれをやろうとしている自信と誇りを持っていたと思うんですよ」

豊かな表現手法を身に付けていった近藤さんは、その腕前を「蛍の墓」で更に世に知らしめることになりました。
近藤さんは作画監督を務めました。
このお話しは、戦時中の神戸を舞台に二人の兄妹の姿を描いています。
空襲により家だけではなく 両親をも失った兄妹。
お金も食べ物も底を付き、二人は行き場を失っていきます。
そのリアリティが絶賛され、映画は高い評価を得ました。

●火垂るの墓・予告編

この映画の製作で近藤さんは、自分が本当に表現したかったものに気付きます。
イメージボードと呼ばれる作品の鍵となるシーンを描いた沢山の絵。
その中でたった一枚、映画に使われなかったシーンがあります。
夏休み、兄妹が仲良くお店でカキ氷を食べる姿です。
近藤さんが描きたかったのは子供達の笑顔でした。

当時、近藤さんは35歳。
一人息子の成長を見守る父親でもありました。
子供達に夢や勇気を与えるアニメーションを作りたいと考えるようになったのです。

近藤さんの頭の中には、次々とそのような想いを描いた作品が浮かび上がってきました。
イメージボードとして残っているものとしては・・・
手作りの飛行機で新しい国を見つけたいと夢を打ち明ける少年の話し。
体は大きいけれど臆病な少年が、勇気を振り絞って女の子を守る話し。

「蛍の墓」の監督を務めた高畑勲さんは、近藤さんの想いを聞いていました。

高畑勲
「日本の子供達をこの風土の中で生き生きとした姿で描いていく。
何気ないふとした姿を描こうというのが一番大切で、中心になる課題だったんだろうなあと思っています」

しかし、近藤さんの企画は時代に受け入れられませんでした。

1980年代のアニメは、激しい戦闘シーンや奇抜な設定を売り物にした作品が次々と放送され、子供達を巻き込んでいきました(映像として映し出されていたのは、ゴッドマーズ、スペースコブラ)。

映像研究家で亜細亜大学講師・叶 精二さん。
彼は当時、アニメがビジネスとして注目されていったからだと分析しています。
「オモチャや関連商品を売らなければいけないし、映画だったら大ヒットしてお客が何度も足を運ばないといけない。
その為の仕掛けとして、非常に高等な背景のあるファンタジーモノだとか どこかの外国が舞台だとか、ありえない能力だとか、武器だとか、そういうものが沢山出てくるという事が必須の条件になってしまっていたところがあると思います」

近藤さんは、アニメ関係者向けの雑誌「アニメれぽーと」で警鐘を鳴らしていました。

「アニメ番組は番組の前や後にあるコマーシャルを子供達に叩き込む為の実は客寄せの道具になっています」

アニメで働いている人にとって、力量を存分に発揮し、子供の健やかな成長と豊かな心を育む作品を作ることは、なにものにもかえがたい切実な願いです。

叶 精二
「彼は実際に生きている人達に興味が会った。
ありもしないものではなく、子供達に励ましになるものを作ろうと。
そこにちゃんと時間と空間があって、生きている人がいるというものを描こうとした。
それは特別な事じゃなくて、本来、アニメーターはそういう仕事だったんじゃないかなと思うんですけれどね」

この続きは次回にて。

恥ずかしながら、作品は知っていたものの、近藤さんという名前や、宮崎監督・高畑監督の正統な後継者として期待されていた事を知りませんでした。
そして、素晴らしい考えの持ち主だったことに感銘を受けましたよ。
確かに近藤さんが若かりし頃というのは、派手なアニメ作品が多かったですよね。
そしてそんな派手な作品で今でも生き残っているのは、ガンダムとかその程度(ガンダムには派手だけではない、いろんな志があったから後世に残ったと思う)。

今、世の中は停滞して閉鎖気味です。
みんな何か希望となるものを追い求めています。
今こそ近藤さんのような方が思う存分に活躍できると思うのですけれどね。
本当に残念です。

●次回の記事:金よう夜きらっと新潟「まなざし あたたかく 〜アニメーター近藤喜文〜」〜ジブリ作品『耳をすませば』の監督【2】
http://kanzaki.sub.jp/archives/001879.html

kondo01.JPG

写真は散歩の途中で見つけた自転車。
至るところが痛んだピンク色の子供用。
こうなるまでの過程が気になります。
そして、自転車愛好家としては、これを見て心が痛みます。

Posted by kanzaki at 2009年06月13日 16:01