2010年06月21日

「快楽」は幻〜小池龍之介

自分の心が暴走しそうな時は、他人の考えのペースに合わせてみよう。
リズムを取り戻せるかもしれないからです。
そう思い、雑誌「PRESIDENT」に掲載されていた小池龍之介さんの話しを読んでみました。


●小池龍之介 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%B1%A0%E9%BE%8D%E4%B9%8B%E4%BB%8B

小池 龍之介(こいけ りゅうのすけ、1978年12月15日 -)は、日本の僧。山口県吉敷郡小郡町(現・山口市)出身。東京大学教養学部地域文化研究学科ドイツ地域文化研究分科卒。月読寺住職、正現寺副住職。2003年にウェブサイト『家出空間』および寺院とカフェを融合させた『iede cafe』を立ち上げる。現在では一般向けの坐禅指導のほか、執筆活動も積極的に展開している。

・家出空間[iede cucan]
http://iede.cc/

・考えない練習|小学館
http://iede.cc/


※世の中、「お金があることが幸せ」という考えが蔓延しています。
貧乏だろうがお金持ちであろうが、結局はお金を幸せの価値尺度にしている限り、常に心に苦しみを抱えていたり、イライラしやすい状態に置かれているわけで、心が満ち足りた平穏な幸せには程遠い。


※みんな、「苦」が消えた状態を快楽と誤解しています。
仏教の根本原理では、人間の心身が本当に感知出来るのは「苦」という感覚だけです。
「快」を感じるのは、もともとあった「苦」が減じた状態を「快である」と脳が情報処理しているに過ぎないのです。
快楽とは、脳が作り出したバーチャルな感覚なのです。
「年収●●●万円が欲しい」という欲望(苦しみ)は、それが達成すれば快楽を感じます。
しかしそれも一瞬です。
慣れてしまえば、次なる「快」を求めて、自らに一層の「苦」を課すようになります。
「年収●●●万円が欲しい」だったら、その金額がエスカレートする訳ですね。
もっと強い刺激を求め、身の破滅に繋がる危険な賭けに手を出す。
苦しまない状態が「幸福」だと思っているのに、人間の心はそれを幸福とは認めてくれません。
快楽の前提となる「苦」がないからです。
自分で苦痛を与えては、その苦痛を解消して気持ちイイと感じる。
「苦」と「快」のサイクルに取り込まれている限り、本当の幸福は得られません。


※お金がほしい、自分にあった仕事が欲しいと思うのは、バーチャルな快楽を求める考えに洗脳されているだけと気づき、自分の心の歪みを直していく。
自分を不幸にするようなことをやめて、心穏やかに生きるように心がける。
すると人間関係が好転して、結果として良い巡り合いも生まれてくるというものです。


※イライラしたり、ドキドキしている時に自分の体を見つめ直すと、モヤモヤと有毒ガスのようなものが発生していることに気づきます。
そこで「危ない」と気付けば、イライラやドキドキが解消されます。
外部の刺激に振り回されなくなれば、淡々と穏やかに生きてゆける。
頭でばかり考えている時代。
どんどんバーチャルな快楽に飲み込まれ、自分の身体感覚が分からなくなっています。
体の声が聞こえないから、心が暴走してしまう。
本格的な瞑想の修行をしなくても、自分の体に意識を向ける癖をつければ、体の内面からの声に気づくことができます。
その声が「こんなに苦しくなっている。やめておこう」と自分を導いてくれる。
心穏やかな幸福感を得るには、自分の内面に耳を傾けるようにすることが大切。

なるほどねえ。
「快楽」というのは幻なんですね。
苦痛が大前提の快楽というのは、冷静に考えてみれば、確かにバカバカしい。
そういや最近、自分自身の体や心に問いかけるという事をしていなかったように思います。
分からなくなった時は、とりあえずネットで検索。
そんな癖がついてしまいました。
外部にばかりに目をやってしまい、自分を見つめる時間を全く持っていなかったように思います。
こうやって神ナナを書くことで、少しでもそういう事に気付けて良かったです。
つぶやくより、心に問いかけてみる。
時代の流れに反しているのかもしれませんが、案外それが正解なのかもしれません。
皮膚感覚というものを、再び取り戻したいと思いました。

Posted by kanzaki at 2010年06月21日 23:31