(明治時代にも写真修正技術ってあったのですね。女性の美への追求はいつの時代も変わらないし、当然だと思います)
作家・童門冬二さんが、斎藤緑雨(さいとうりょくう)さんを紹介していました。
●斎藤緑雨 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%8E%E8%97%A4%E7%B7%91%E9%9B%A8
斎藤 緑雨(さいとう りょくう 齋藤緑雨、1868年1月24日(慶応3年12月30日) - 1904年(明治37年)4月13日)は、明治時代の小説家、評論家。本名・賢(まさる)。「正直正太夫」をはじめ、「江東みどり」「登仙坊」など別名も多数ある。幸田露伴がつけたという戒名は「春暁院緑雨醒客」。
●青空文庫(無料)作家別作品リスト:斎藤 緑雨
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person565.html
●緑雨遺稿-近代デジタルライブラリー
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/889316
斎藤緑雨さんの言葉にこんなものがあります。
「按ずるに筆は一本也、箸は二本也。衆寡敵(しゅうかてき)せずと知るべし」
昔から作家は食えなかったのです。
だから、二本の箸に一本の筆はかなわないのです。
芸の世界も写真の世界もそうですが、生活の必需品でないもので生計を立てられるのは、なかなか大変なのです。
数えで38歳の時に逝去しました。
そのとき彼は、新聞広告を出しました。
「僕本月本日を以て目出度(めでたく)死去致候間、此段謹告候也」
小心者で神経質な彼だからこそ、反動的に目立つことをしたのではと、よく知る人はいいます。
※
緑雨の奇行はたくさんあります。
彼は死ぬ直前に自分の書いた原稿で、未完のものは全て焼いてしまいました。
しかし、人から預かった原稿・・・例えば、樋口一葉などからのものは丁寧に返すように遺族へ伝えました。
記憶力がよく、いちいち相手のいうことをメモしませんでした。
そばにあるランプの笠を利用し、話しを聞きながら三角を書いたり、バツ印をつけたりしました。
客が帰った後、それによって記憶をたどり改めてメモをするのです。
書き出すキッカケさえあれば良いというのは、さすがですね。
人に「好きなモノ」を尋ねられると、彼はこういいました。
「一番好きなのはハンカチ、二番は馬、三番目はソバだ」
なぜハンカチなのか、誰も理由を知りません。
けれど皆は、「ハンカチ様」と呼びました。
彼は、「電話」が嫌いだそうです。
商売柄、電話を掛けなければ間に合わないこともあります。
そうすると、必ず人に頼みました。
金に困って借金を申し込む時は、「○○様」と宛書だけを書き、封筒の中は、何も書いていない紙が一枚入っていたそうです。
もらった方は、また借金の申し込みだと察していました。
※
幼いころ、母親に「色鉛筆を買ってほしい」とねだりました。
けれど、家計が苦しいので、すぐ買えません。
後日、母は浅草の観音様のそばにある店で、色鉛筆を買ってきてくれました。
自分の髪道具を売って買ったのです。
母が亡くなってからそれを知った緑雨は、その色鉛筆をもらった日を「エンピツ記念日」と呼んで、必ず観音様にお参りし母の供養を弔ったそうです。
※※※
森鴎外、幸田露伴などと違って、正直、有名ではないですよね。
文学好きならば、樋口一葉の関連作家として知っているかもしれません。
なかなか風変わりで、案外、現代にも似たような人をらほら見かけます。
画一的で、歩調を合わせるのが当たり前になっている時代。
そういった人物の行動を逆に羨ましくも思います。
人に迷惑を掛けないのが前提ですが・・・。
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