昔、私はコレクター体質でした。
以前に比べたら、そういう心は減りました。
(まったく無いというのは嘘になるので、「減った」という表現にします)
どうしてそうなったかというと、考えを変えたからです。
「お店にあるものは、自分のコレクションを陳列してくれている場所」
そう思うようにしたからです。
コレクションしたものって大抵、それを「使い倒す」ということはなく、「飾って眺める」ことの方が多いです。
例えば、スニーカーは本来、履いて歩くのに使うものです。
けれど、レアなモノ、お気に入りのものは、部屋に飾って眺めるだけ。
ならば、お店で眺めるだけでいいかなあと思うようになりました。
やがて、眺めるだけに出かけるのも億劫になるので、お店にも行かなくなりました。
興味が薄れていきます。
結局、モノをあまり買わなくなりました。
まあ、お金に余裕があれば、また違ったのでしょうがね・・・。
※
そういう考えには原点があります。
それは、「コンビニは自分の冷蔵庫」だという考えです。
コンビニよりスーパーで買った方が、当然値段は安いです。
しかし大抵は、たくさん買ってしまう。
余計なモノもです。
スーパーだとどうしても、「買い置き」という考えになってしまいます。
コンビニをマイ冷蔵庫と考えると、単価は多少高いかもしれませんが、「今その時に必要なモノ」しか買わなくなりました。
合計金額でいえば安くなります。
今は、そのコンビニすらあまり行きません。
(まったく行かないというのは嘘になるので、そういう表現はしません)
これからの熱い季節には、水分補給とか細かな買い物はするかもしれませんが、毎月の出費としては少なくて済みます。
下記は、読んだ本の抜粋です。
私のような考えの方って、やはりいるのですね。
※
●『[禅的]持たない生き方』(金嶽宗信 著)より
一方、それとは別に、わざわざ同じものを集めたい、つまり「収集癖」というものがあります。
心当たりがある方も、もしかしたらいらっしゃるかもしれません。
特に男性に多いですが、時計、プラモデル、フィギュアといった小さいものから、バイクや高級車まで、とにかく集めるのが好きという人がいます。
それは、集めることに、歓びを感じるからです。
一つずつ増えていくのが楽しい、眺めているだけでうれしい。
しかし、結局、集めたところで、それを持ったまま死んでいくわけにはいかないわけです。
残された人が、集めたものを処分しなくてはならなくなります。
極端な話になりますが、できた禅宗の僧侶は、自分の家や土地には、まったく執着していません。
なぜなら、この地球全体が自分の庭くらいの感覚で生きているからです。
そういう感覚を持てば、別に何も必要ありません。
自分の家があり、庭があるといっても、公園に行けば、もっと広い庭があります。
それを「自分の庭」だと思えばいいというスタンスです。
それと同じで、時計を集めるのが好きな人は、時計屋さんに行き、ショーケースを見て、それで満足というように、価値観をシフトしていきましょう。
漫画本を集めている人は、書店が自分の本棚だと思えばいいですし、靴や帽子を集めるのが好きであれば、靴屋さんや帽子屋さんに行って、陳列棚を眺めて心が満たされるようになることを目指せばいいのです。
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