●『河合隼雄の「幸福論」』(河合 隼雄 著)より
詩人の工藤直子さんの最近のエッセイ集『ライオンのしっぽ』(大日本図書)を読むと「触れる」ことの大切さが実感される。
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「触れる」ことが、完全に心の接触になっているから、われわれも心を動かされるのだ。
たとえば、満開の桜を十歳のときにはじめて見たときの印象が次のように書かれている。
「夕方近くになって、空気がふっと冷えたのだろうか。
いきなり、ごう! と風が吹いた。
驚いた。
数千の花びらが、いちどに空を舞ったのだ。
無数の花びらが、空の青さをうめ、人々を巻きこみ、いつまでも、くるくると舞いつづけている。
いきなり非日常の世界に放りこまれたように、わたしはぼうぜんと立っていた。」
「おそらくあの瞬間、私たちは、花自身の祭りに加わって、『ひと』であることを忘れていたのではあるまいか。」
一瞬に散った数千の桜の花びらは、十歳の直子ちゃんの心の琴線に触れたに違いない。
このような意味深い「触れる」体験を失ってしまった現代人は、急にそれを取り戻そうとするが心の琴線はさびついてしまっている。
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【コメント】
私は私を「心の琴線」が錆びついてしまっている人間だと思っています。
今、いろんなモノを捨てて身辺整理しているのは、その回復のためでもあります。
錆びついた心を回復させるには多分、「心に余白」を設けないといけないように思ったりします。
けれど、心は目に見えないから具体策がよく分からない。
どうやったら良いか分からない場合、医学的には「運動をする」のが手っ取り早いです。
私はそこに、「断捨離」を追加すると良いと思っています。
モノを処分していくと、目に見えて「部屋に余白」が出来ていきます。
この視覚的なものが、心にもリンクして効果があるように思うのです。
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断捨離がそれなりに進んだ休日の昼下がり。
冒頭の「触れる」も良いのですが、「聞く」もまた良いと思いました。
(そう考えるぐらいには、心に余白が出来てきたのかな?)
あえて何もせず、部屋の窓を全開にしてみる。
休日の住宅街の昼下がりですから、特別な音は聞こえてきません。
それでも静かに聞いていると、いろんな街の音が混じったものが聞こえます(ゴーとかヴォという感じ)。
たまに、クルマが通る音も聞こえるかな。
おっ、救急車のサイレンの音が聞こえてきたぞ。
近所の体育館から、バスケットボールのバウンド音も聞こえる。
モノが多かったり、やることが多いと、こういう事に気づかないものです。
普段は一応、社会人として会社へ行って仕事をしている身。
けれどこうして休日の昼下がり、社会と接点を持たずに街の音を聞いていると、自分と社会との接点なんて紙一重なんだなあと思います。
会社へ行って働けば、人との接点もあるし、やることもある(多過ぎるぞ!)。
さらに、お金までもらえてしまう(少な過ぎるぞ!)
けれど、会社との接点が無くなった時、自分自身には何が残っているのだろうかと時折不安になります。
不安は目に見えないからどんどん増大する。
さすがに会社を簡単に辞めてしまうと、簡単に生活(人生)が詰んでしまう。
断捨離してモノを捨ててしまうのはある意味、会社を辞めたあとのシミュレーションでもあります(定年後なのか、自主的なのか分からないが・・・)。
まあ、そんな感じであれこれ考え、こうやって書いている昼下がり。
これが、心の琴線の錆びつきを少しでも落とすことにつながればいいなあと思います。
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