2011年11月13日

伊勢みずほさんセミナー「まちかど行ってみずほ〜今こそふるさとに誇りを〜」【1】

フリーアナウンサー伊勢みずほさんのセミナーを聞きに行ってきました。

●プロフィール
1977年生まれ。
宮城県仙台市出身。
高校時代から宮城県内でラジオ・パーソナリティーやフリーアナウンサーとして活躍。
2002年4月〜2010年3月まで新潟放送アナウンサーとして勤務。
現在はフリーアナウンサーとして多方面で活躍。
町おこし、動物愛護など積極的に携わっている。
オフィシャルブログ http://ameblo.jp/isemizufo/

isesemi01.JPG

●セミナー日時
・開催日:2011年11月6日
・開催時間:14:00〜15:30
・主催:財団法人 新潟県建築住宅センター
・会場:新潟ユニゾンプラザ多目的ホール

●話した項目
(1)自己紹介
(2)東日本大震災を経験して
(3)チャリティーTシャツ
http://kanzaki.sub.jp/archives/002497.html

(4)まちかど行ってみずほ・商店街の魅力
(5)路地連新潟
http://kanzaki.sub.jp/archives/002498.html

(6)ご当地B級グルメについて
(7)ふるさと愛は、家族愛
http://kanzaki.sub.jp/archives/002499.html

今回は話した項目のうち(1)〜(3)についての概要、
及びご本人の話された言葉をテキスト化して掲載します(以降、順次掲載します)。

●(1)〜(3)の概要
現在、フリーアナウンサーとして新潟県内を中心に活躍している伊勢さん。
実家のある仙台は、3月の東日本大震災で被災しました。
地震後すぐに実家へ戻った時の様子や、その後、何度も被災地へ炊き出しへ行った事、現在おこなっているチャリティーの説明をされました。

(以下、伊勢さんの講演をテキスト化したものです。
表示されていない場合、下記に「続きを読む」が表示されていますので、それをクリックしてください)

【自己紹介】

みなさまこんにちは。
今、ずいぶんずいぶん持ち上げていただきまして、ここに出て来るのが申し訳ないぐらいに感じていたのですが、フリーアナウンサーの猫舌の伊勢みずほです(会場笑い)。
どうぞ、よろしくお願いします。

(拍手)

ありがとうございます。
レポートする時などは、猫舌はよくないですよね。
揚げたてのコロッケなどは本当に辛いんですけれど、アツアツを食べている顔が面白いという事で、ディレクターはそのまま、「食え、食え、食え」と言って来るんですけれどもね。

そんな事もやっておりますが、今日は本当に雨が強くなってきていて、お客さん一人も来てくれなかったらどうしようと思っていたんですが、大勢の皆さんにお集まりいただきまして、本当にどうもありがとうございます。

改めまして、私の自己紹介を簡単にさせていただきます。
私は宮城県の仙台市出身です。
先ほど理事長から話しをいただいたのですが、2002年に新潟へやってきました。
去年フリーアナウンサーになりましたので、BSNで8年間、そして新潟の生活は10年間、10年目を迎えています。
新潟に来た当初は、1、2年で帰るんだろうなあと思っていたのですけれども、本当に新潟が大好きになってしまって、10年も暮らすことになっています。

今では大好きな第二のふるさとです。
フリーになったとはいえ、BSNでのお仕事が殆どです。
テレビで言えば「水曜見ナイト」という番組ですね。

●BSN水曜見ナイト
http://www.ohbsn.com/minight/

新潟の元気をこの番組から作っていこうという事で、意気込んで放送していますが、この間の水曜日は、秋のラーメン特集。
新潟淡麗ラーメンというのをお送りしたんですが、「観たよ!」という人はいらっしゃいますか?
あっ、へ〜、こんなに沢山。
ありがとうございます。
ここだけで視聴率を測ったら90%ぐらい行きそうでしたね。
どうもありがとうございます。

出ているのは私と喜谷知純という男性のアナウンサーですね。
あと、新潟大学法学部の田村秀教授。
コメンテーターとしてお迎えしております。

そして今年、BSNには二人の新人アナウンサーが入りました。
番組を観てくださった方ならば分かると思うんですが、とっても可愛らしい女の子が二人です。
一人は新潟市出身の新海史子アナウンサーですね。
安達祐実ちゃんに似ているなんて言われているのですが、色白で白雪姫みたいな女の子で、凄く細くって、でも実はプロフィギュアスケーターであるという事で、芯の強い女の子です。
彼女は仙台で8年間、プロフィギュアスケーターとして活躍して新潟に戻ってきて、今、アナウンサーの道を選んだんですね。

そしてもう一人が、広島出身の森本晴香アナウンサーです。
彼女はぜんぜん違ったタイプで、チャキチャキの西の人という感じがしますね。
関西弁がなかなか抜けないと、今、一生懸命ニュースを読む練習を頑張っているところです。

昨日、水曜見ナイトのDVDが発売されまして、記念のトークショーをさせてもらったんですが、この新人二人と私と三人で30分ぐらい喋ったんですね。
入社したときとはぜんぜん違って、二人ともしっかりと話せるようになっていて、私ちょっと驚きました。
一緒にいて凄く気持ちのいい二人なんですね。
これから皆様の町にも取材などでお邪魔する事も出てくると思いますので、新人二人も可愛がっていただきたいなあと思っております。

もう一つ、ラジオ番組を担当しておりまして、「近藤丈靖の独占!ごきげんアワー」。

●BSNラジオ「近藤丈靖の独占!ごきげんアワー」
http://www.ohbsn.com/gokigen/

私、火曜のアシスタントをやっています。
ちなみに、この番組は聴いたことがあるよという方はいらっしゃいますか?
あっ、本当に今日はたくさんの方が、どうもありがとうございます。
この番組は、BSNの平日なんですね。
午前中の3時間放送しています。
近藤丈靖アナウンサーは、七色の声を使い分ける芸達者なアナウンサーと言われていまして、モノマネも得意ですし、あと、下ネタも得意なアナウンサーなんですね。
「朝から、そんな話し!」と何回も怒られてはいるのですけれども、是非、クルマの移動中など、聴いていただければなあと思っております。

【東日本大震災を経験して】

さて、今日のテーマは「まちかど行ってみずほ〜今こそふるさとに誇りを〜」という事でつけさせていただきました。
私自身、今年ほど、このふるさとというものを意識したことがありませんでした。
皆様もきっと、東日本大震災の時には、それぞれの立場で、ご自分の事とか、家族の事とか、お仕事の事、住んでする場所の事、なにかしら考えたんじゃないかなあと思います。

私の実家、仙台にあるのですけれども、少しだけ今日、地震で経験してきた事をお話しさせていただこうと思います。

皆さんは3月11日、あの時間、何をしていらっしゃいましたでしょうかね。
私は休みだったので、新潟市の自分の家にいたんです。
物凄く揺れたじゃないですか。
長い時間、揺れましたよね。
でも私はあの時、ぱっと「あっ、また中越なんじゃないかな」と思ったんです。
あんなに揺れたんで、もっと近いと思ったんですね。
嫌だなあと思ってテレビをつけたら、宮城県であると。
もう200キロ以上離れている宮城で揺れて、新潟であんなに揺れる。
ただ事じゃないなあとすぐに思いまして。
今思えば、もう少し思慮深く状況把握してから行けば良かったと思うのですが、地震が発生して20分後ぐらいには、私もクルマに飛び乗って、仙台へ向かったんですね。
とにかく家族に会わなければいけないと思ったんです。

飛び出した迄は良かったんですが、高速道路に乗って、津川インターですぐにおろされました。
その先は通れませんでした。
津川でおりたところで、ガソリンスタンドがあったので、そこに寄って、満タンにして。
ガソリンスタンドの人に「ここから仙台までどう行ったらいいですかね。道を教えてください」と聞いたんです。
でも、ガソリンスタンドの人は、「いや、テレビを観ていたら、津波が来ていて大変なことになっている」と。
私、津波のことも知らなかったんです、その時まで。
「大変なことになっているから、絶対に行けない、引き返しなさい」と言われました。
でも、私の中では、帰るという選択肢は無かったんですね。
なんとしてでも仙台に行かなければいけない。
「分かりました。なんとか行ってみます」と、ナビゲーションが古かったんですけれども、ナビにそこから高速以外で行ける道を入れたんです。
そうしたらナビが古かったせいで、バカだったんですね。
猪苗代のスキー場を通るような、ナビで見ると、クネクネという山道がたまに出るじゃないですか。
あの道を通らせられたんですね。
でも、そこを信じて行くしかなかったので、行ったんです。
猛吹雪で、スキー場の近くを通って、そこは真っ暗でした。
あとは、福島の町の中に着いてようやく、クルマがいっぱい渋滞していたので、そのテールランプで明るかったんですが、どこへ行っても橋が落ちている、土地が割れているで迂回迂回。
ちょっとずつ、ちょっとずつ進む大渋滞で、住宅街みたいなところを通されて行ったんですね。

どうにか宮城県に入りまして、そこからは出来るだけ情報収集しようと思いまして、TBCラジオ、仙台の地元のラジオを聴きながら行きました。
そのラジオから聴こえてくるのが、荒浜の海岸に、200から300の遺体がうち上がっている模様でしたとか、気仙沼では火災が起こっていますとか、そんなニュースが淡々と流れていたんですね。

その時、私は状況が全く分かっていなかったので、放送局もパニックになっていて、誤報を流しているんだ、とんでもない誤報を流しているなと思いながら行ったんです。
ちょうど荒浜の辺りを通ったときに、道が真っ赤だったんです。
緊急車両の赤色灯で真っ赤で、サイレンがずっと鳴っていたんですね。
それを見て、あっ、もしかしたら本当なのかもしれない、大変なことになっているんだなと思いました。

あの情報を伝えなければいけなかったアナウンサーの気持ちを思うと、本当に辛かっただろうなあと思います。
感情を押し殺して、淡々と伝えていたんでしょうね。
私もずっと動揺したまま、泣きたくも無いのに涙がどんどん流れてクルマを運転をしていて。
どうにか、それでも夜中の12時に実家に着くことが出来ました。

マンションなんですけれども、マンションの一階で毛布にくるまって、他の住人の方と避難している家族と会うことが出来ました。
その日は、クルマの中でエンジンをつけたり切ったりして、寒かったので、それで過ごしまして。
次の日、部屋の片付けをして、やっぱり夜は怖いからクルマで眠って。
次の日からは、近くの避難所の小学校でお世話になりました。

実家はですね、仙台市の青葉区というところにありまして。
みなさんご存知でしょうかね、仙台駅とか、国分町・・・飲み屋街があるのですが、どちらかというと、あの辺りにあるマンションです。
ただ、12階だったということで、非常に揺れたんですね。
家の中のものは、全部壊れました。
何一つ残っていませんでした。
こんなにも酷いもんなのかと思ったのが、洗濯機がズボッと飛んで、壁に突き刺さっている状態だったんですね。
怖かっただろうなあと思います。

でも今は本当におかげさまで、新潟の皆さんにもたくさんたくさん助けていただいて、家族は日常生活を取り戻しています。
本当に感謝の気持ちでいっぱいです。

その後ですね、地震の後、二週間後ぐらいに新潟に戻ってきたんですが。
その後、新潟の飲食店の方々と、チームを組んでいまして。
ラーメン屋さん、お菓子屋さん、パン屋さん、おすし屋さんなど、一緒にですね、南三陸町の歌津地区というところへ、何度か炊き出しに行きました。
歌津というのは、皆さん聞いたことがありますでしょうかね。
とっても綺麗な風光明媚な観光地でした。

みなさんもテレビで観ていたとおり、全部を流された所です。
体育館で5か月ぐらい皆さん生活を送っていたんですけれども、本当に歌津に関して言えば、避難所となっていた中学校の体育館が、高台にあったんですけれど、そこから街が見下ろせる場所に避難所があったんですね。
だから5か月間、何も無くなったふるさとを見下ろしながら、避難所生活で本当に辛かったろうなあと思います。
名十年もその場所に暮らしていた、思い出がいっぱい詰まった家が、何もなくなってしまってですね。
私がお話しをうかがった、家が流されたとおっしゃっていたお婆ちゃんと、お嫁さんと、子供たちがいらっしゃったんですが、家族の命は無事だったそうです。
本当に喜んでいたんですが。
ただ、仮設住宅が狭いので、お婆ちゃんだけが別の棟のおうちに住んでいるんですよね。
田舎ですと、大家族で住んでいる方が多いので、今は住む家がなくなって、家族形態といいますか、家族一緒に過ごすことが出来なくなっている人達が多いです。
一日でも早く、それぞれの自分達の家族の住まい、家族一緒の空間を早く取り戻せたらなあと思っています。

家族もそうなんですけれども、地区ごとにまとまって仮設に入れたら良かったんですけれども、宮城に関して言えば、みんなくじ引きで仮設住宅が決まったので、みんなバラバラのところに移ってしまっているんですね。
地域のコミュニティーが完全になくなっているのが、ちょっと心配されているところです。
行ってみて分かるのですが、報道されていないところも、まだまだ細かくありまして。
この期に及んで、8か月経っても手付かずの所もまだあります。

炊き出しに行ったときに、60代ぐらいの大工さん、おじちゃんと出会って、話しを聞いたんですが。
あまりにも街が酷い状況だったので、せめてライフラインが整うまでは、他のところで暮らしたらいかがですかと私、聞いたんです。
そしたら、その大工さんは、「それは無い」と即答されました。
ここにいれば、まだ出来ることがあると。
「復旧運行のために動くことが出来るし、俺たちがいなくなったら、ここは誰が守るんだ」とおっしゃったんですね。

もう何にもなくなってしまったふるさと。
それでもその土地に根付いて、ふるさとを大切にしていくという思いが、日本人の中にある本能なのか、または、ふるさとの持つ力なのかなあと考えさせられました。
きっと今頃は、大工さんも、地元の人達の家とか、新しいおうちを建てるために汗を流していらっしゃるんではないかなあと思います。

炊き出しに行って、もう一つ感じたことがありまして。
それが、本当に新潟の食、美味しいものが持っている力って、凄いんだなあって感じました。

ラーメンとかお寿司とか、ぽっぽ焼きとか、ワタアメ、カキ氷なんかも向こうで振舞ってきたんですけれども。
被災地の方々、大喜びでした。
新潟の炊き出しは、一番うまいと言ってくださいました。
「だから、また来てね。本気でみんな新潟の炊き出しを楽しみにしているんだよ」と言ってくださったんですね。

そこで、食での支援ということで、私たちは新たな企画を考えました。
それは、「新潟に南三陸食堂を作ろう」という事で、今、考えています。
随分壮大ですね。
本当に叶えばいいなあと思っているんですが。
これは、新潟の食材と、南三陸のものをコラボした美味しいものを新潟の方に提供することによって、向こうのものを買うことが出来るし、そして新潟の方に美味しく楽しんでいただきながら、忘れずに長い支援が出来るんじゃないかなあと考えたんです。

あとはもう一つ、向こうでですね、被災地の方で食堂をはじめたいと言っている方がいるので、そちらの方の支援も出来たらいいなあと思っております。

【チャリティーTシャツ】

それにはどうしても資金が必要ということで、私たちはTシャツを作ったんです。
ちょっとここで皆さんにご協力をいただきたいなあと思って、今日、持ってきているんですけれども。
こちらです。

hopet01.jpg

凄い可愛いんです。
見てください。
これ、出来立てのホヤホヤのTシャツなんですけれども。
今日は会場にも、何人の方が着てくださっていますね。ありがとうございます。

真ん中に虹がありまして、太平洋と日本海をつないでいる希望の虹。
真ん中に大きく「HOPE」・・・希望ですね。
そして、がっちりと手を組んで握手をして、一緒に頑張っていこうという「TOGETHER」が書かれています。
そして、背中バックプリントにも凝っていまして。
ちょっと小さくて見にくいんですけれども、後でゆっくり見てください。
日本地図が書かれていて、新潟の所に印が付いています。
「HOPE FROM NIIGATA」と書かれています。
新潟から希望をというデザインがあるんですね。
これは、デザイナーの方も、私たちの気持ちを汲んでくださいまして、デザイン料は一切とらずに、無料で考えてくださいました。

こちら、3150円で販売させていただいて、原価を取り除いた全てを被災地のために使わさせていただこうと思っております。
今日は、ちょっだけ持ってきているので、もしご協力いただけるのならば、よろしくお願いします。

この南三陸町というのは、今は見る影もありません。
沿岸部、酷い状況です。
まるごと、街ごと流されて、何もありません。
人もたくさん、たくさんいなくなってしまいました。
そんな、何もなくなってしまったふるさと宮城の沿岸部に立って感じたことは、帰ったときに、慣れ親しんだふるさとが、当たり前にそこにある事が、どれほどありがたいことなのか、というのを強く感じました。

その慣れ親しんだふるさとというのは、ひとつは人との繋がり。
もう一つは、街の風景・景色のありがたさでした。
まずは人のつながりと言う点から、本題に入っていこうと思います。

【続く】

●次回の記事:伊勢みずほさんセミナー「まちかど行ってみずほ〜今こそふるさとに誇りを〜」【2】
http://kanzaki.sub.jp/archives/002498.html

Posted by kanzaki at 2011年11月13日 14:11